集平セミナリヨ レポート17
集平リモート・セミナリヨ レポート


第17回
『とんぼとり』を語る

2024年8月21日

1994年 温羅書房


『とんぼとり』(1994年)は、『とんぼとりの日々』(1977年)を作者自身がリメイクした作品です。前作『アロくんとキーヨちゃん』(1990年)までは東京時代の作品、本作からは長崎時代の作品です。まずは朗読からスタートしました。

自分は赤羽末吉の弟子だと集平さんは公言していたそうです。万が一、赤羽さんが亡くなるようなことがあったら、ベートーヴェンの葬儀に参列したシューベルトのようにぼくらまっ先に駆けつけようと、同じく赤羽さんを尊敬していた川端誠さんとよく話したそうです。1990年、絵本ジャーナル「PeeBoo」の創刊直後に赤羽さんは80歳で亡くなります。けれども集平さんにそのことをだれも教えてくれなかった。遅れて新聞記事で知って大きなショックを受けますが、知らなかったおまえが悪いと言う人もあり、自分はもう絵本の世界にいないのだと感じます。 バブル経済に浮かれる一方で人間味が失われていく。1990年の年末に完成した東京都庁をバベルの塔のつもりで設計したと丹下健三は言いました。バベルはバブル(泡)です。「東京都民は総不動産屋になってしまった」と丹下さんは言いました。

赤羽さんがいなくなった東京には未練はありません。前から長崎に引力を感じていた集平さんは、嫌がるクン・チャンを説得し、1991年6月9日(ロックの日)から長崎の今いる場所に住み始めました。高所恐怖症なのでマンションの10階というのに最初は怯みましたが、手前に日本二十六聖人殉教の丘、遠くに大浦天主堂が見える、坂の町に囲まれた港の色が刻々と色を変える眺めが恐怖症を吹き飛ばしました。

雲仙・普賢岳の火砕流で多くの犠牲者を出し、その時の長崎は騒然としていました。マンションのエレベーターで乗り合わせた赤ちゃんを抱く喪服の女性は、火砕流に巻き込まれて亡くなったカメラマンの夫人だと管理人さんに教えてもらった時、東京でぼんやり見ていたニュース画面がぎゅっと自分に迫ってきた、今オレは現実の真っ只中にいると感じたそうです。

東京から出てきたぼくらはこういうふうだったと、1枚の絵を見せてくださいました。旧約聖書の物語を描いた古い絵に集平さんが東京都庁をコラージュしています。欲望渦巻くソドムの街を滅ぼしに行く神様に、アブラハムは正しい人がいたら助けてくださいと頼みます。神様はアブラハムの甥のロトとその家族をソドムから天使に導かせて脱出させます。絶対に振り返ってはいけないと言われたのに、思わず振り向いてしまったロトの妻は塩の柱になってしまう、劇的なシーンを描いた絵です。集平さんとクン・チャンは「振り返ったら塩の柱になるよ」と言い合いながら東京を出てきたのです。『絵本づくりトレーニング』(1988年)、『見えない絵本』(1989年)、『こじこじ映画館』(1989年)、『映画未満』(1990年)、『絵本未満』(1990年)、『音楽未満』(1991年)などは、未練を残さないために東京に残した遺言でした。

東京時代の最後のころ、自分はこんな状態だったかもしれないと、古い皿回し芸の映像を見せてくださいました。舞台の上で小さなお皿をいっぱい回すのですが、皿が落ちそうになったら駆け寄って回し直す、忙しく小さな皿を回し続けても実りがない、長崎では大きな皿をゆったり見事に回せるのではないかと集平さんは思うのでした。

絵本ジャーナル 「PeeBoo」(1990年〜1998年)の準備中だった1989年に「岡山集平塾」という絵本講座が始まります。そのころ、全小中学校に司書がいる県は岡山と沖縄だけだったそうです。岡山の熱心な学校司書の集まりで講演をしたのがきっかけで始まった隔月の岡山集平塾は10年ほど続きました。集平さんが長崎に引越した1991年には塾生みんなで長崎に「『見えない絵本』ツアー」をしたそうです。

そのころ、岡山集平塾生の1人に出版社をやるのが夢だったと相談されます。けれども会社を立ち上げる資金がない。集平さんは『はせがわくんきらいや』を復刊させてはどうだろうと提案します。『はせがわくん…』の予約を取り始めると、予想以上の申し込みがあり、あっという間に資金が集まります。この時『はせがわくんきらいや』のカバーをパンク・ロックのレコード・ジャケットのようなデザインにしたのもインディペンデント出版ならではのことでした。出版社名は「温羅書房」。温羅(うら)は岡山に伝わる桃太郎伝説の鬼の頭領の名前です。桃太郎のモデルといわれる吉備津彦命に制圧された温羅が最後まで立てこもった鬼ノ城など、謎の多い古代吉備王国を紹介するビデオなども見せてくださいました。

こうして1993年に『はせがわくんきらいや』が温羅書房から復刊されると、次に『とんぼとりの日々』をと言われます。集平さんは描き直させてほしいと申し出ますが、出版社からも集平塾のメンバーからも反対されます。それをゴリ押ししてリメイクしたものの、前の方がよかったという声が大きかったそうです。『とんぼとりの日々』から『とんぼとり』までの17年間にぼくが何を身につけ何を失ったのか、絵本とは何か、ちゃんと見比べて考えてほしかった。ここで初めての試み 『とんぼとりの日々』と『とんぼとり』を二つを交互に比べて朗読してくださいました。『とんぼとり』はまだ一度も正当に読まれたことのない絵本だったかもしれません。

温羅書房では、1993年『はせがわくんきらいや』復刊、1994年『とんぼとり』リメイク描き下ろし、1995年『パイルドライバー』描き下ろし、1996年『たんぽぽのこと』(『はなす』を改題)復刊、4冊だけ出して4年足らずで消えました。幻のような出版社でしたが、『とんぼとりの日々』と読み比べて絵本を考えるためにも『とんぼとり』の復刊を願いますというお話で講義部分を終了しました。

放課後は講義にはおさまりきらなかったお話から。集平さんが絵本作家としてデビューをしたころには、商売ではなく絵本と向き合っている個性的で魅力的な編集者がいっぱいいたそうです。そんな編集者と作る絵本は、1+1が2ではなく、3にも4にもなり、絵本を作る喜びがありました。しかし1980年ごろから長い出版不況の時代に入り、会社は人格よりも学歴で人を選び、計算高くなり、絵本出版のクオリティが落ちてきたのです。

温羅書房には編集者が必要だ。でも大学出を採用したり、既成の編集者をスカウトするのではなく、一から育てたいと集平さんは申し出ます。「あしたのジョー」のおっさんのつもりで、ジョーを見つけるべく目を光らせていました。福岡県の宗像での講演会に、福岡の絵本専門学校で教えていた飯田栄彦さんが連れてきた学生たちの中に、生意気な目で集平さんを見る女の子がいました。ジョーだ! と集平さんは思ったそうです。それは今やシューへー・ガレージには欠かせない存在の曽我祐未さんでした。曽我さんを家に招き「編集に興味ない? 長崎に来ない?」と聞くと「やりたい」と一言。専門学校卒業後、長崎に引越して来ました。熊本出身の曽我さんは、熊本の伝説のレコード・ショップ「ウッドペッカー」に出入りしたロック好き、ラーメン好き、お酒好きの落ちこぼれの中高生時代を過ごしました。シューヘー・ガレージに通い、映画や音楽を一緒に観て聴いて、本を読み、集平さんにデッサンを、クン・チャンに写真をならい、身だしなみから電話の応対…編集者になるためのあらゆることを学びます。「シューへー通信」も編集者としての勉強の一環としてクン・チャンと始めたのでした。二年間の修行期間を経て、編集者として月給をもらい始めて2ヶ月で温羅書房は潰れてしまいました。それから現在までシューへー・ガレージのスタッフとして働かれています。

これからは地方の時代だと、1980年代の後半に集平さんは思います。地方で表現の仕事をするのは大変ですが、質の高い仕事を地元ですることで次の世代に身をもって伝えていくしかないという思いを語ってくださいました。

地元の人が地元を卑下する、東京の方が上だというコンプレックスをなんとか克服したい。その点で、五島出身の格闘家・西良典さんと意気投合したこともありました。一つ一つドミノの牌を並べていくように丁寧に話しても、ドミノ倒しのように不意に崩されてしまう。地元に芸術文化を伝えるのには我慢が要ります。

ここで参加者の方からの質問に答えます。「若いころから、深く色々なことを考えておられるのは習性なんでしょうか。ご自身ではどう思われますか?」という問いに、自分はこういうふうに生まれ生かされているから…母親には「あんたは変な子やったよ」と言われました。かわいそうな子ばっかり家に連れてくる。恵まれている子より恵まれていない子の方が人間的な気がする。気になってしようがないんです。『はせがわくんきらいや』の「ぼく」です。本を読んで頭で考えるのではなく、見た後に必要なら本で確かめる。見るのが先です。考えるのが先の優等生やインテリは嫌いです。言葉にならないヒリヒリした思いを絵本や歌というカタチに定着させる。レイ・ブラッドベリの短編集「刺青の男(ザ・イラストレイテッド・マン)」(1951年)や草森紳一の『イラストレーション 地球を刺青する』(1977年)のタイトルが示すように、イラストレーションは刺青だと思ってこれまでやって来ました。刺青ですから消せない。残る。その覚悟で臨んでいます。

「『とんぼとりの日々』、『とんぼとり』はご自身の体験が元になっていますか?」という質問には、国がエネルギー源を石炭から石油へ変えたころに、炭鉱の閉山で多くの人が関西に職を求めて引越してきたころの体験が元ですと答えます。姫路の子は初めて会う九州の子にカルチャーショックを受けました。ぼんやりとした自分たちよりも九州の子たちは輪郭がくっきりとして見えたそうです。リアリティを感じました。

「筑豊からやって来た転校生は『とんぼとり』の方が男らしく見えました」という感想に、それはものすごくうれしい、初めて言われましたと集平さん。保守的と言われるかもしれませんが、ぼくは基本的に男は男らしく、女は女らしいのが好きです。男の方が強いなんて思ってないですよ、男尊女卑と言われる九州でも実際は女の方が強いです…などと、どんどんと話が膨らみ、話は尽きませんが、丁度時間となりました。

(齋藤)

●『とんぼとりの日々』報告文





『とんぼとり』より。筑豊炭田から転校してきた四角い男の子。


小さな皿をいっぱい回す。東京時代の集平はこんなふう。


岡山集平塾『見えない絵本』ツアー。1991年、外海・出津教会。


温羅書房から復刊された『はせがわくんきらいや』。


温羅書房ロゴマーク。岡山の熊山遺跡をデザイン。


謎の多い古代吉備王国。ピラミッドのような熊山遺跡。


絵本のリメイク3種。赤羽末吉『スーホの白い馬』、長新太『おしゃべりな たまごやき』、長谷川集平『とんぼとり』


『とんぼとりの日々』ぼくが 手をはなしたら……


リメイク版『とんぼとり』上と同画面がこのように変化。


温羅書房から出版された4冊●クリックで拡大


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