とんぼとりの日々


1977年 すばる書房 A4
2004年 復刊ドットコムで復刊


●書評

上野瞭 (「児童文学通信 U&I」2号 1977年7月30日発行より)

 この絵本を読んで(いや、見て……かな)、ぼくは久しぶりに映画『いちご白書』を思いだした。ストップ・モーションで示されるラスト・シーンのところだ。人間のぶつかりあいがふいにとまると、バフィ・セント=マリイの歌う「サークル・ゲーム」がはいってくる。

 昨日子どもが遊び歩いて
 トンボをとって びんにつめた……


 だれの訳か知らない。映画館で買ったパンフレットにでていた。原文の方は、今江祥智が書き写してきてくれたものである。
 学園紛争の中でもみくしゃにされる若者たち。かれらへのいつくしみを(ぴったりこない言葉だな)、さりげなく歌に托する手法である。叫ぶかわりに、心やさしく語りかけるといえばよいか、そういうみごとな置き替えの発想があった。

 『はせがわくんきらいや』(すばる書房)もそうだったが、この絵本でもきわめてたくみに、その映画を連想させるほども、作者の思いが、ワン・クッション置いて語りかけられるのだ。それは、物語構成の心にくいほどのうまさだけをいうのではない。作者の思いのほどがすべて、簡潔な言葉と線描の画面の中に溶けこんでいるみごとさをいっているのだ。少年なら、だれにだっておぼえのあるようなトンボとりの話。それを、さりげなく描く形で、じつは、どきりとするような命の重みをさし示す絵本。それがこの一冊だといっているのだ。

 ……「ぼく」は、トンボとりが下手だ。しかし、一度トンボをつかまえて羽根をむしってみたいと思っている。そこへあらわれる転校生。この少年は、トンボをつかまえて、「ぼく」にさしだす。さあ、羽根ばむしりますか……という。「ぼく」は、トンボが可哀そうになって逃がしてやろうという。

 「なんちゅうこつば、こきよっとね。バカか、おまえ。とったものば、ぜったいはなさん、それが、オトコたい。」

 転校生の少年のこの言葉は、垂直に「ぼく」を刺す。「ぼく」に集約された人間の感傷性をつらぬく。それと同時に、さりげなく挿入されている「チクホウ」という言葉の意味を照らしだす。転校生の背おった生活の重みを浮きだたせる。「ぼく」はそれでもトンボをはなす。「とんぼは、ふらふら、と飛んで、すとん、と落ちて、死んだ。」

 絵本の最後のこの場面で、読者はもう一度、息をのむだろう。人間の感傷のもたらす冷酷な波紋と、命の重さに身をすくめるだろう。そのあとで、絵本でこれだけのことができるのかという感動が、ゆっくり湧きあがってくる。

 『田島征三の絵本対談』(すばる書房)には、この作者も登場する。そして、絵本づくりの姿勢をそれとなくあかしてくれる。それを読みながら思うのだが、この人は、じぶんのやさしさを、わざとこわい目でにらんでいるんだな……。

出版当時のオビ2種。クリックで拡大。






「シューヘー通信」38号('04年10月発行)
『とんぼとりの日々』
復刊記念インタビュー
より抜粋


'04年9月4日 シューヘー・ガレージで
集平 =長谷川集平/Guitar Vocal
クン =クン・チャン/Cello Vocal

限定25部で出した小型絵本『とんぼとりの日々』。集平の
手元に残っているのは番外3部。約6センチ×約9センチ。

── 『とんぼとりの日々』が9月末に復刊されることになりました。おめでとうございます!
全員 わー。パチパチパチ(拍手)
集平 毎回拍手をありがとうございます。
── 絶版になってから時間が経ってるので、初めて見る人も多いでしょうね。
集平 この本は原画もフィルムも紛失してて、2つ目のすばる書房で復刊したあとは出す術がなかった。
クン 最後に出たのが'84年6月20日だから、もう20年以上。
集平 嬉しいですね。

『とんぼとりの日々』が世に出るまで
── 『はせがわくんきらいや』の創作えほん新人賞の賞金でガリ版の機械を買って、それで『とんぼとりの日々』の小さいのを作ったんですよね。
集平 そう。あのときの賞金は5万円、たいしたことなかったんだよ。奥谷敏彦と始めたミニコミ「ねこまんま」を発展させて、別冊や小さい絵本を作りたくてガリ版を買った。
 小さい『とんぼとりの日々』は『はせがわくん〜』が出版された'76年の11月に作ってるね。まだガリ切りがヘタだったから刷ってるうちに原紙が破けてね。手元に残す分と人にあげる分を40〜50部作って、あとは限定25部で10円で売った。でもなかなか買ってくれなかったよ。
クン 今の100円くらいじゃない。うどん一杯30円の時代だから。
集平 そうだね。そのころは本が出版されても印税率は低かったし、まともに印税をくれなかった。雑誌の挿絵やカットの仕事でなんとか食いつないでたけど、食えなかったんでいろんなバイトしたよ。百貨店のディスプレイからヤクザ絡みのやばいバイトまで。こんなことやってたらダメになると思った。

1977年1月5日富士書店講演会後のサイン会。すばる
書房に勤めて間もないころ、初めての講演会だった。

 そのうち原画展やサイン会の話が来るようになった。すばる書房の営業の富田さんというおじさんと一緒に廻ってるうちに、ぼくらは仲良くなった。「お金なくて困ってるんです」と相談したら富田さんが雇ってもらえるよう会社に頼んでくれて、準社員扱いで編集者として雇われた。
 「月刊絵本」の編集部に入って、最初の大きな仕事は新人賞の選考の手伝いだった。審査の合間に、その小さい『とんぼとりの日々』を審査員や編集者に見せたら、今江祥智さんが気に入って「これは『はせがわくん〜』よりええんちゃうか、出さなあかんで」とすばる書房の長谷川社長に言ってくれて、即出そうということになった。その時新人賞を受賞した川端誠さんのインタビューに行ったのが、ぼくの初めての取材の仕事だったと思う。それからいろんなことが動き始めて、編集部へは半年ぐらいで行かなくなる。『はせがわくん〜』だけだったら打ち上げ花火みたいに終わってたかもしれないけど、『とんぼとりの日々』を描いたことでぼくの絵本作家生活が前に進み始めた。

長崎・崎戸炭坑跡に立つ。公の記録に書かれたものと、
その中に生きた人の記憶の間に真実が隠されている。

炭坑と転校生
集平 『はせがわくんきらいや』が何割かぼくの体験から来てるように、『とんぼとりの日々』も体験のコラージュ+創作なんだ。小さいとき、九州からの転校生が目立ってあった。エネルギー源が石炭から石油に移行して、九州の大きな炭坑がだんだん閉鎖になったからで、大きな社会問題でもあった。日常の中では淡々と、ああまた九州から来たという感じだったけどね。ぼくが住んでた姫路の海沿いには播磨重工業地帯があって、大量の炭坑離職者が労働力として家族ごと引っ越して来てた。町の人がみんな九州言葉で喋ってる地区もあったらしい。
 ぼくは炭坑のことをよく考える。長崎にも炭坑がいっぱいあったからね。ついこの間閉山した池島炭坑、トーマス・グラバーが近代採掘を始めた高島炭坑、廃墟になった人工の軍艦島、崎戸……。これらの炭坑では戦時下に朝鮮人や中国人が強制労働でひどい目にあった。大牟田の三井三池炭坑には最初積み出しする大きな港がなかったので、島原半島の先端にある口之津港にまず運んで、そこからアジア向けに大きな船で輸出した。船底には女の人たちがこっそり積まれて売られていった。からゆきさんだね。日本が満州を占領したのも石炭と無関係じゃない。炭坑のことは石油時代以前の日本を考えるときに抜かせない。『とんぼとりの日々』に描いた物語は大きな歴史の末端、台風の渦の一番外側の雲の切れ端みたいなことにすぎない。それでもぼくらの心に大きな影を落としてる。

『とんぼとりの日々』制作当時の集平。ガリ版が
電気ごたつの上に陣取っている。撮影・中島興。

集平 『とんぼとりの日々』の九州から来た子のモデルは高校の同級生。ぼくは小中学校まで中心部の主に商売をやってるジゲの人たちが通わせる学校で過ごした。高校で郡部の生徒と混じって、狭い世間から目を見開かれることになるんだ。大きな出会いが佐賀からやってきたN君だった。彼はぼくら関西の軟弱なお坊ちゃんと違って、生活能力旺盛で欲がはっきりしてる。N君とある女性を巡って三角関係になったときも、彼の押しの強さに圧倒されたよ。ふたりとも学生運動サークルに入って、やがて森永ヒ素ミルク事件に思い当たって、校内で森永製品不買運動や写真展、討論会をやった。そいつ歌がうまくて、一緒に音楽もやった。顔四角くて眉毛濃い。ラグビー部に入ってて、ぼくと違って運動神経が良くて、すべてにおいてごつかったな。ぼくの母方のじいさんは九州なんで、ぼくの中にもそういう血が流れてるのは確かで、そこを触発されたような出来事だった。
 それとは別に、小学生の時に山陰からやってきた子がとんぼとりのやり方を教えてくれた。そういうカルチャーショックの記憶をコラージュして描いたんだ。狭い世間に生きてたぼくにとって、外からやって来る同世代の子は刺激的で、外に目を見開くきっかけになった。転校生はよく児童文学のモチーフになるよね。変な言い方になるけど、転校生は必要なんだよ。それぞれの人の中に転校生の思い出は生き生きと今も生きていると思う……つづく

『とんぼとり』(温羅書房)1994年。リメイク版も見てほしい。




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