集平セミナリヨ レポート19
集平リモート・セミナリヨ レポート


第19回
『すいみんぶそく』を語る

2024年10月16日

1996年 童心社


1996年、童心社から出版された『すいみんぶそく』。なぜか当初から出版社に鬼っ子扱いされ、初版の在庫を残したまま絶版になってしまったそうです。
東日本大震災を描いた『およぐひと』(2013年)に感銘を受けた別の編集者の要望で復刊しますが、結局また鬼っ子扱い、童心社と相性が悪いのか、売るのが難しい絵本なのかもしれません。まずは朗読からスタート。いつにも増して奥深い朗読の集平さん、こうして読んでみると短く感じるけど密度の高い絵本ですねと一言。

初版を出した時に編集者に言われて、お母さんたち向けに会報誌「母の広場」に書いた一文(シューヘー・ガレージHPに掲載した「純なラブストーリーをどうぞ」)を朗読。破滅型パンク・ロッカー、ジョニー・サンダースのことも書いてあって「これで嫌われたかな」と集平さん。このころの集平さんは音楽活動の全盛期。集平さんとクン・チャンの二人バンド「シューへー」はライブで全国を飛び回り、1992年〜96年に4枚の自主制作アルバムCDを出します。パソコン(Mac)を仕事道具に取り入れたのもこのころでした。

東京と長崎の風景をミックスしたような遊歩道。歩くシュージとケンタロウはエアロスミスとニルヴァーナのロックTシャツを着ています。東京時代最後の児童文学『石とダイヤモンド』(1990年)にも書いた通り、ゴージャスなエアロスミスにイカれていた集平さん。長崎に引越してからはより過激な音楽を聴くようになります。バブル経済がはじけ、過酷でなさけない現実の中で生まれたグランジロック、特にニルヴァーナ。人間の強さよりも弱さを直視する表現をリアルに感じた時代でした。

対戦ゲームの画面は、98ノートを使って描いたドット画を部屋を暗くしてパソコンのモニターに映して、解像度の低い出始めのデジカメで撮ってプリントアウトして版下にしたという手の込んだ1枚です。ゲーセンのアーケード・ゲームのように見せたかったとのこと。集平さんたちがゲームセンターで遊んだ「バーチャファイター」の当時の動画を紹介。ケンタロウの揺れる心を表したような表紙の「すいみんぶそく」と「長谷川集平」の文字はクン・チャンがMacで作成しました。Windows 95が発売されてパソコンが一気に普及し、バーチャル・リアリティが子どもの世界を変えていきます。

ケンタロウは燃えているカガミちゃんの夢を見ます。それまで毎晩、息をヒューーーッと吐き続けていたケンタロウですが、燃えながら歩くカガミちゃんをスーーーッと吸い込んで食べてしまいます。カニバリズム…児童書が避けてきたこのシーンを描けてよかった。悪夢のような、大好きな絵です。ここで、2016年の復刊版のために書いた「20年目のあとがき」を紹介。絵本はパンドラの箱、絵本を開いて読むのは、箱を開けて中に封印したものを解放することでもあると、驚くべきことを話す集平さん。

モーリス・センダックの絵本『かいじゅうたちのいるところ』(1963年)には「おまえを たべちゃうぞ!」「たべちゃいたいほど おまえが すきなんだ」という『すいみんぶそく』を先取りしたような表現があります。カニバリズムは愛憎入り混じる、1枚のコインの裏表のような究極の心理かもしれません。人間は欲望を隠蔽しながら日常を生きている。夢は願望充足、人は夢の中で欲望を果たすとフロイトは言います。絵本、音楽などの芸術表現にも夢と同じような願望充足の効用があります。隠蔽していたものを解き放つ、それが『すいみんぶそく』です。品格を重視する親や教師は当然嫌うでしょうね。

シューへーのセカンド・アルバム『チェロギタ・ロック』(1994年)から、人間の暴力をギリシャ神話や聖書を引用しながら面白ろおかしく(?)歌った「パゾリーニ・サドリーニ・マゾリーニ」を聴かせてくださいました。イタリアの映画監督、ピエル・パオロ・パゾリーニは人間の暗部をえぐるような映画を撮ります。われわれが無意識的に避けてしまう人間の暴力を直視しようとする姿勢は、集平さんと大きく重なります。
学生に絵本を教えている時、絵本の大きな役割の一つは読者が見たいものを絵で見せてあげることだよと教えた集平さん、一番大事なところを避けて、その周辺のみの表現で終わってしまう学生が多かったから。無意識は自分を守るために本質を避けます。精神分析で言う「抵抗」です。それでは絵本にならないと集平さんは言います。

キリスト教の聖体拝領(プロテスタントでは聖餐式)はパンとワインに象(かたど)られたイエスを自分の中に迎え入れる。食事を摂らず、ご聖体だけで何十年も生きた人もいたそうです。宗教なので科学的な解明はできませんが、そこに真理が隠されている。解釈はできないけれど大事なものがある。『すいみんぶそく』にも大事なものが隠されていたらいいなと思っています。ぼくの他の絵本のような入口や出口がこの絵本にはない。実はぼくにもまだわからないのですと話して講義部分を終了しました。

放課後では、『すいみんぶそく』の細部を解説。ぼくは絵本や歌を隙のないものにするよりも、読者が入れる隙を作っておきたい。「ヒューーーッ」とマンガっぽい字にしたのも隙を作ったつもりでした。水性顔料マーカー、水性マーカー、リキテックスなどミクストメディアで描くことで、空間的にも心理的にも奥行きのある、スムーズじゃない絵にしたかった。
登場人物の名前の「シュージ」は、こじこじ音楽団のギタリストの名前から。表情や雰囲気は、実在の編集者がモデルです。「ケンタロウ」は、湯布院でお世話になった方の名前から。ケンタロウはケンタウルス(半人半獣)にも通じます。まだ大人になりきれてない、自分の中の原始をコントロールしきれていないケンタロウを表しています。「カガミちゃん」は精神分析用語の鏡像段階からつけました(集平註:人は鏡におぼろげに映ったものしか見ていないという聖書の言葉もあります)。

ぼくは「次の日の朝、女子生徒の行方不明で学校中、大さわぎになった。」というところで終わろうと思っていたんですが、編集者に猛反対されて続きを描くことにしました。ヒントになったのは高田渡夫人、友恵さんの言葉。ある夜、渡さんの隣でハッと目を覚ました友恵さんがこう言ったそうです。「ワタル氏、さっきの夢見た?」(!)
このラストシーンをつけ加えたことで、同じ夢の中でカガミちゃんはケンタロウを食べたかもしれないという読みもできるようになったと思います。「あたし、このごろすいみんぶそくなの」という爆弾発言は『トリゴラスの逆襲』(2010年)につながります。

いつもは参加者の方から次々に質問や感想が届きますが、今回はみんな黙り込んでしまいました。それほど深いところに入り込む作品なのでしょう(集平註:絶句ってやつですね)。上のようなお話を聞いてからやっとリアクションが来ました。集平さんの作品の登場人物は、実在の人の名前やキャラクターを使っていらっしゃいます。今回はそれをより強く感じました。そうやって人を愛そうという思いがないと絵本は作れないのだなと思いましたとEさん。この感想に、モノや人をなるべく等価に愛情深く描きたいと思ってきた理由のひとつに軍国日本が犯した大きな罪、731部隊の話をされました。残酷な人体実験を繰り返した彼らは人を「丸太」と呼んでいました。人間を丸太と見ないとできないことだったんでしょう。そんなふうになってしまったら終わりだと思うんです。浦山桐郎は人間模様をどう映画に撮ったか、ぜひ観て確かめてください。作品の中の人間模様を読み取れる観客や読者は多くいません。Eさんのように読み取ってもらえて、とてもうれしいです。

カガミちゃんが燃えながら歩いているところはどうやって思いついたんですか?
という質問には、地震・雷・火事・親父という言葉がありますが、火事で燃えるぼくらの小学校の記憶や、かくれ家で火遊びをしていて材木置場に燃え移って、アパートの住人たちのバケツリレーで助けられて父に怒鳴り散らされたり、ぼくにとって火事は大きなトラウマです。火葬も怖い。好きな人が燃えながら歩いている、これはぼくにとって最悪のイメージです。ケンタロウはカガミちゃんを火から救おうとして吸い込む、助けるのと食べるのが同じ行為になってしまっています(集平註:猫舌のぼくとしては燃えるカガミちゃんを食べるのも苦行です)。

最後に、集平さんが人間模様を表現するお手本にしているというフランスの映画監督ジャン・ルノワール(画家ルノワールの息子)の紹介と、再来週の「『はせがわくんきらいや』を語ろう!」のお知らせをして、みなさん、睡眠不足にならないようにおやすみなさいと締めくくられました。

(齋藤)


シューヘーのアルバム。ながらく完売だった1st『シューヘー』が2026年再販予定!


土手を歩くシュージとケンタロウ。左側:エアロのTシャツと『石とダイヤモンド』、右側:ニルヴァーナのカートと「エルム街の悪夢」フレディの赤黒ボーダーシャツ。


ドットで描いたゲームの絵。


当時のアーケード・ゲーム「バーチャファイター」。






「あたし、このごろすいみんぶそくなの」とカガミちゃん。


高田渡・友恵夫妻(左端と右端)と集平&クン・チャン。


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『すいみんぶそく』資料ページへ ……報告文に出てきた「純なラブストーリーをどうぞ」「20年目のあとがき」も読めます。