『ワカンナイド』インタビュー

−−アルバムのコンセプトはどういうものですか。

集平/これまでのアルバムはライブでやっている曲の記録、ライブバンド・シューヘーの入口という意味合いが強かった。聴いて気になったらライブに来てよ、っていう感じだったんだ。だけど今度のはCDだけで閉じてもいい、ライブだけじゃなくてCDが表現の場になってきたな、と。だからライブでできない曲も入っています。

−−変わったタイトルですね。

集平/アルバムに入っている曲の歌詞に、「わからない」「知らない」がたくさん出てくる。ぼくの作品って、出会った相手のことや、自分のことがわからないというのがプロットになっていることが多いんだ。そのワカラナイという言葉がキーワード。
 で、「ワカラナイ」は、突然段ボールと石川浩司がCDのタイトルに使っているので、「ワカンナイ」にしようかと思ったら、英語の"WHAT CAN I DO"が「ワカンナイド」って読めそうなんで、ひっかけて、ドをつけた。造語なんだけど、アンドロイドやヒューマノイドなんかにも似てるし、半分意味不明の言葉でおもしろいなと思ってつけました。

−−曲について。まずは「地図を見つけるまで」

集平/バスリコーダーの即興演奏にパーカッションを重ねた。これまでも「猫ヒゲDance」とか「ドラキュラ・ソング」で使ってきたけど、リコーダーって得意分野なんだ。

クン/習ってたんでしょう。

集平/うん。中学生の時、ピアノをやる気が失せたときに、先生が「じゃあリコーダーでもやろうか」って。だまされて習ってた。
 リコーダーは音響的にもおもしろい。楽器の中でもっとも純音に近い。いかんせん音が小さいから、そのせいで古典派以降はほとんど使われなくなって、今でも大編成や、それこそロックバンドでは使われてない。ビートルズがレコーディングで使ってるけどね。特にバスリコーダーは、アルトリコーダーより1オクターブ低くて、音量が泣きたくなるほど小さいからあまり実用性がない。

クン/低い音の方が小さいから、強く吹くとオクターブ上になってしまう。

集平/だけど、今回のやり方でならレコーディングできるんだよね。これは目からウロコだった。マイキングやリミッターで音量調整できるでしょ。リコーダーの音を持ち上げたり、特徴のある低い音を強調できる。生音だと聴こえてこないような音が強調できるからね。そういう意味でおもしろがってくれる人はいるんじゃないかな。

−−あの演奏が即興だったんですか……。

集平/そう。次の「地図」のリフを最後に持ってきてつなげようと思って。そのリフからイメージするフレーズを逆発展させていったんだ。太鼓の音がよく録れているんだけど、どうやって録ったかは秘密。
 リコーダーを電気化できたらステージで使えると思うんだ。普通にマイクでひろったらハウっちゃってだめだろうね。

クン/ホントにCDでしか聴けません、ていうことね。

集平/今のところはね。何とか工夫してみたい。シューヘーやる前に、ぼくひとりでライブハウスでリコーダーのソロをやったことあるんだよ。ドラムと共演した事もある。その時はもっとキーが高くて大きい音のリコーダー使ったんだけど。そういう要素も捨てがたかったので、今回取り入れた。

−−「地図」

集平/「地図」は前口上が長かったんで期待してる人もいると思うけど…これは名曲です。ひじょうにシューヘーらしい曲。「しめきり」(3rd『three-legged』)の線でもっと深まったという感じ。

クン/今回初めてエレキチェロでレコーディングしたんだけど、チェロは倍音がすごいから、低い方の2本の弦で和音を弾くと音が裏返っちゃう。きちっとそのキーの音を出そうと思ったら、ものすごい力がいるんだよ。ところがエレキチェロの場合は、低い方の和音でも、強い音がストレートに出る。「地図」は低音でガンガンやるような曲なので、エレキチェロに移行したときにこの曲をレコーディングするというのは、非常にタイムリーでよかったんじゃない。生チェロではニュアンスはだいぶ違ってたと思う。

集平/とにかく、シューヘーの現時点で一番いい曲だと思う。シューヘーらしい音っていうか、チェロギタ・ロックとは何ぞやっていうのが出てる。この曲はほんとに一発録音だからね。歌も楽器も全部セーノッでやったからね。チェロとギターだけでやってきて、ここまで来たっていう実感があるよ。今後、この曲が(作曲の)基準になってくるんじゃないかな。

−−何か、方向がはっきりしたとかそういうことですか?

集平/うーん、要するに地図を見つけたっていう感じですね。今後のシューヘーの行く先が描いてある。だから「地図」だよ。

クン&インタビュアー/おお〜。

クン/私は「地図」っていう曲は、歌詞を読んだときから『ザ・ディープ』っていう映画のイメージがあった。海底に沈んだ宝船を探す、というストーリーなんだけどね。それで曲の途中にその映画の海のイメージから音を入れているところがあるよ。

集平/チェロの音がイルカの鳴き声みたいに聴こえる部分があるしね。

−−「まっ赤な夕陽が燃えている」

集平/これはスペシャル・サンクス時代の曲で、ずっとやりたかったんだけど、どうぼくらなりに処理したらいいか、わからなかったんだ。
 ここ数年ベンチャーズに凝っててね。2ndアルバムをレコーディングする直前に、たまたま楽器屋で中古のモズライトのベンチャーズモデルっていうギターを手に入れたのがきっかけだった。今回もこの曲だけ、その後手を加えたモズライトを使っている。もともと「まっ赤な夕陽が燃えている」はストレイ・キャッツがやってた昔のロカビリーの替え歌。そのアレンジがずっとこびりついてて、そっから抜け出さないと自分らの音にならないなと思ってたのが、ベンチャーズの音に置き換わったんだよね。で、ようやくレコーディングする気になったっていうことかな。
 歌詞が3番まであって、1番と2番はぼくのオリジナルで、3番は憂歌団の「スティーリン」っていう曲の歌詞をもらって使ってたけど、今回はやめた。あれはぼくの実感ではないんでね。前はヤンキーの世界をフィクションとして歌ってたんだけど、それはもう却下して。
 「地図」にもわからないっていう歌詞があるけど、この曲の新しい3番には「わかっちゃいないよ、わかっちゃいない」っていう、これは橋幸夫の歌の歌詞。で、やっと腑に落ちた。今回ベンチャーズと橋幸夫のおかげで、ようやく曲になったなという感じ。
 リズムボックスを使ってるのも初期のシューヘーのスタイルで、久々にやってみた。最近のリズムボックスはよくなったなというのが実感ですね。

クン/昔使ってたリズムボックスが、リズム太郎という名前だったんで、今度のはリズム太郎2号だね。

集平/前にリズムボックス使ってた時はテクノの影響が強かったけど、今回はまさにリズムボックスだね。それにしてもリズムボックスってリズム感悪いな。

−−「線路」

集平/これはライブを聴いてる人だったら気がつくと思うけれども、これまでやってきたキャロルの「ホープ」っていう曲の、ぼくらのアレンジがもとになってる。曲の前半の展開は変えちゃったんだけど、後半はキャロルのコード進行のまんま。メロディは微妙に違う。この曲は今回のアルバムの目玉です。これは特にニルヴァナから影響を受けたものが、ようやく消化できたかなっていうのがあるね。歌詞の中にもニルヴァナ出てくるし。
 男と女の話なんだけども、はっきり言ってぼくとクンの物語です。それで、まあ、なんとも言えないラブソングだと思います。そういうの書いたの初めてかもしれない。

クン/いろんなラブソングを書いてるから、自分たちのことかってよく誤解されるけど、集平は作品に私的なことはまったく書かない人だよ。だから今回のは珍しいと思う。

−−今まで曲を作ってきて、ここで私的なものが入ったのには理由があるんですか。

集平/それは…わからない、全然わからないけど、急にできちゃった。
 リアルな話を、いろんな側面のある一部分だけを強調してくと、そっからどんどん発展して別の物語になっちゃったりするじゃない。「線路」の場合は逆にドキュメントの部分がとても濃いと思う。

クン/線路っていうのが、わかんないとか平行線っていうことの象徴的な言葉なんじゃない。

集平/遠近法に消失点っていうのがあって、線路を地平線の方にずっと伸ばしてくと、地平線のところで一点になるように見えるんだ。遥か向こうで平行線がくっついてるように見えるんだけど、実際そこに行ってみたら離れてんだよ…そういう歌。

−−「ヨナ」

集平/映画『ジョナスは2000年に25才になる』の「ジョナスのテーマ」。はじめは映画館で録音して、芸大出の友人に採譜してもらったんだ。ジョナスっていうのは旧約聖書のヨナのこと。これはライブでもよくやってるチェロのソロ曲ですね。今回はちょっと音的に遊んでみて、モノラルの音像にして、古いレコードの針音を入れた。これもエレキチェロの音なんだよ。ぼくらが仕入れたエレキチェロはすごく応用範囲が広いんで、驚いてる次第でございます。

−−「見える」

集平/この曲にもいろんな要素が入ってる。まず前半はぼくらのフレーズで、中間部にジョン・レノンの「ハッピークリスマス」が入ってきて、それにレッド・ツェッペリンの「フォア・スティックス」のリフが入ってきて、後半部にまたぼくらのフレーズに展開するんだ。歌詞はじつに奇怪なものがあって、筋肉少女帯の影響が強いです。

クン/シューヘーの悪魔路線、久々のオカルトバラードだよね。

集平/この歌詞の中に出てくる、「サナギちゃん」は『すいみんぶそく』の「カガミちゃん」に次ぐ非常に秀逸なネーミングだと思う。

クン/手塚治虫の『人間昆虫記』をちょうど読んでたから恐かったなあ。

集平/今回もわれわれのCDには不親切にも歌詞カードがついてないです。歌詞カードなしで聞こえない歌は、聞こえなくていいやと思ってるんでね。
 今の歌謡曲番組、日本語の歌詞にまで字幕が出るじゃない。しゃべりにまで字幕がつく。あれ、おかしいと思う。聞き取れないのは無いのと同じ。もしぼくらの技術不足で歌詞が聞き取れないんだったら、その歌詞はないということでいいです。歌というのはそういうものだと思ってるんで。

クン/よくみんな間違えて覚えてるよね。私も小さい頃に「異人さんに連れられて行っちゃった〜」を「人参さんに〜」だと思ってた。それは子どもだからで。

集平/「帰ってみたらば恐い蟹(こは 如何に)」とかね。そういうふうに聞こえてたらそれでいいと思うんだ。ただ「サナギちゃん」ていう言葉は聞き取ってほしいな。あとリフのところは「魑魅魍魎(ちみもうりょう)、見える」と言ってる。舞台になっているのはぼくの架空の中学生時代なんで、姫山公園とか聖マリア病院という固有名詞が出てくる。
 この歌詞に出てくるサナギちゃんみたいに、人の見えないものが見える才能の話はよく聞くんだけど、その人が見てるものが正しいかどうかはわからない。背後霊が見えるっていうのも、いっぱいいる背後霊の中の出たがりのやつだけ見えてるのかもしれないし、たぶらかされてるか、それとも何かの勘違いかもわかんないもんね。そういう特殊な場合には驚くけれど、じつはどの人も他の人が見えないものが見えてるんだよね。で、自分が見てるものは他人と共有できないんだよ。そこのところが人間存在の孤独、あるいはオリジナリティの始まりなんでね。それがテーマです。サナギちゃんが見てるものをこの主人公は見えないから、「サナギちゃん、見てるものをぼくに言ってよ」って彼はジレンマに陥るわけだけども、逆にぼくが見てるものはサナギちゃんには見えてないんだよ。この曲は音もやかましくて、好きです。
 「線路」とこの歌はうらはらになってる。最後に切なく「あぁ」と溜息をつくんだけども、そういう自分の持ち合わせてないものを持ってる人が魅力的なわけ。

クン/山中恒さんの『おれがあいつであいつがおれで』みたいに、男の子と女の子が入れ替わっちゃったら、もうあの二人はぜったいに恋愛できない。知りすぎちゃうとミステリアスな部分がないわけよ。なぞの部分がなければその人にエロティシズムとかセクシャリティは感じないよね。

集平/それは山中さん自身が言ったことなんだ。

−−「日曜日の歌」

集平/この歌はもともとはジョン・ハートフォードっていうアメリカのカントリー界の変人が書いた「レコードを日なたに置きっぱなしにしないでください」っていう、レコードの注意書きをそのまま歌にした曲。その曲が好きで、自分の歌詞をつけて「日曜日の歌」として歌ってた。それを今回大幅にメロディを変えて、ようやく自分の歌にした。チェロとギターにキーボードをつけ加えて、少し変わったアレンジにしてる。ビートルズの「ノルウェイの森」のフレーズなんかもでてくる。なんとも情けない歌詞なんだ。
 「日曜日の歌」はぼくが描いた絵本(好学社)と同タイトルで、あの絵本に出てくる家族もそうだけど、うだつの上がらない人々、思い通りに行かない、だけどこの社会を構成している大半の人たちをうたった歌です。6曲目の「見える」は特殊な才能を持った人の歌だけど、7曲目のこれは、たいした才能も持ち合わせない、自分の生理的な生命力を信じるしかないみたいな人のブルースですね。曲は全然ブルースじゃないけど、歌詞の内容はブルース。
 よく「最後の日曜日」(2nd『チェロギタ・ロック』)とか日曜日が出てくるけれども、日曜日が好きなんだよ。実際はぼくはほとんど日曜日のない生活を送ってる。だけど日曜日って他の曜日と街歩いてる人の様子も違うしね。遊園地だって日曜日は人がいっぱいやってくる。特別な日だ。

クン/日曜日がくればきっと楽しいこともあるさっていうような歌だね。

−−日曜日日曜日ってこんなに連呼する歌も他にないですもんねぇ。

集平/今回やっぱりオウム事件のあとに作ったアルバムだから、歌詞を連呼する歌が多いね。

クン/洗脳しようと思ってるな。(笑)

集平/今そういう時代なんだよ。ぼくが最近の日本語のラップが大嫌いなのは、どうでもいいようなことをただ言い回しだけでしゃべくるから。それなら本当に大事な言葉だけを繰り返して言う方がいい。

クン/そうだね。頭から全部「愛してる」って言うとか。

集平/空虚な言葉を羅列しても詩になんかならないんで、「松島やああ松島や松島や」でいいんだよ。

クン/言語自体の持ってる意味されるものを考察しないで、たわごとをただガシャガシャ言っても詩になんない。一個の単語の中に含まれている、沢山の意味の要素をモンタージュして、もっとその意味をふくらますっていうのが詩でしょ。

−−今度の「日曜日の歌」は長年のファンがびっくり仰天するでしょうね。すごい変化ですね。

集平/前の形だとレコーディングする気になれなかったけど、今回のはこれいいぞと思ってやったから。

クン/今回は白紙で出発した部分もあって、たとえば「夜の三角形」(1st『シューヘー』)みたいにばっちりステージにのっけてたのを、そのまま録音ということじゃなかったからスリルがあった。レコーディングの中でいろんな展開があったり、アレンジのイメージが湧いたりしておもしろかったよ。「日曜日の歌」もそういう曲。やるまでは全くどういう仕上がりになるか読めなかった。これからライブでどんなアレンジにするか考えないとね。
 というわけで、今回は特に聴く前にタイトルだけ見て「ああ、なんだ、知ってる曲だ」と思っても開けてビックリだよ、きっと。

−−「サラバンド」

集平/これもインストゥルメンタルで、アルトリコーダーで無伴奏チェロ組曲第2番の「サラバンド」を吹いています。それに音のコラージュでいろんな音がかぶさってきて、予告通り、ビートルズの『ホワイトアルバム』の4面でレノンがやったアプロプリエーション(流用)をやってみました。
 使った楽譜はフランスの人がリコーダー用に編曲したもの。それをさらにぼくなりに解釈しなおした。これまでこの曲をリコーダーでレコーディングしてる人たちの演奏はもっと早い。ぼくはゆったりとしたテンポで入れてる。「サラバンド」っていうのは、もともとスペインの舞曲なんだ。だけどもカザルスは組曲の中の「サラバンド」は跳ねちゃいけないと言ってる。いろんな本を調べてみても、やはりそう書いてあるんだけど、ぼくはゆっくりとしたテンポで跳ねる曲なんじゃないかと感じてて、ああいう演奏になった。これはぜひクラシックやってる人に、どう思うか聞いてみたいところなんだけどね。
 組曲の中の「サラバンド」だけをやったけど、いずれまるごとレコーディングしたいな。特に無伴奏チェロ組曲の第2番が好きで、そこだけでもやってみたい。その試作品みたいな感じ。今回はシューヘーのアルバムなので、いろんなノイズや、映画の一部分とか効果音なんかを入れて、アルバムの中の1曲として扱った。原始的なサンプリングだな。
 ぼくの『絵本未満』『映画未満』『音楽未満』という3部作を書いたころに考えてたことの総括のようなつもりで作った。タルコフスキーの『サクリファイス』の主の祈りの部分と、パゾリーニの『奇跡の丘』の悪魔の誘惑の部分が入ってます。ここにはかすかにバッハの「音楽の捧げもの」がBGMで流れてる。それからラフマニノフの「晩祷」ていう曲が途中で聴こえてくるんだけど、これは浦山桐郎の葬式の時に浦山の友人が選んでかけた曲で、ぼくにとっては意味深い曲。それと、くりいむレモンの「黒猫館」のセリフが入ってるのと、リングスでぼくらが初めて西さんの試合を観たときのアナウンサーの「西 良典」というコール、それから生月島っていうところの隠れキリシタンの歌が入ってる。これはオラショじゃなくて「地獄様の歌」っていう大きな声で歌うもの。それから森有正の、バッハについてNHKで話したインタビューが入ってる。あとどこかの武道場の練習風景。それからフランス語の動詞の変化が入ってて、これはぼくらがフランス語を勉強してたときの名残です。「イレテ」って聴こえる部分があって、エッチだなと思ってたのを繰り返し入れたんです。それから製本工場の音とか、子どもの声とか、「グッドバイ」っていう童謡の一部分が入っていたりする。それからオーケストラのチューニングの音、それも立派なオーケストラじゃなくて、昔のラジオ局に入ってたようなので、エレキの音が聞こえたりする。そんなんで、全体に背景のように聞こえてるのは鍾乳洞の水の音とか、お寺の鐘が聞こえたり…とそういう混沌としていながら整然とした私の好みのものがあちこちから聞こえてくる。いろんなものが頭の中でそうやって浮かび上がってくることってあるよね。ボーっとしてる時にぷつぷつと雲仙の雀地獄みたいに聞こえてくる、演奏してるときもそうなんでね、いろんなものが頭の中に去来する、そういう感覚にとても近い。

クン/意識と無意識の間のような。

集平/うん。バッハの「サラバンド」を1曲演奏してるうちに、いろんなものがやってきては消えていくっていうね。
 森有正の話は日本語だし、よく耳を澄ませば聞き取れると思うから聞いてくれるといい。ぼくはすごく影響を受けた話なんでね。

クン/バッハ演奏のバックにあの喋りが入ってるというのは、なかなか勇気だよな、と思いましたよ。

集平/著作権法違反すれすれゴメンナサイの曲ですね。

−−「サイナラ」

集平/これはほんとに古い曲で20年ぐらい経つんじゃないかな。これは高田渡がよくやることだけど、人の曲に自分で歌詞をつける、あるいは人の歌詞をあわせる。お茶で言うと、見立てるわけです。渡さんの大ファンだったのでウディ・ガスリーの「So long」で、そういう歌を作りたいと思ってた。「地図」と別の意味でシューヘーの音がここまできたということに自分で驚いてるんだ。なんか安酒場のガラの悪い連中が演奏してるみたいな感じになったね。
 技術的なことを言うと、サイドギターはDチューニングでボトルネックで弾いてて、リードギターは逆にレギュラーチューニングでカポタストして弾いてる。今回ぼくのフェルナンデスのテレキャスターのピックアップを古いタイプのに変えたんで、テレキャスらしい音が出てると思うよ。シューヘー流ロックンロールワルツ、自分で聴いてもおもしろいもん。この曲の聞き所はキレたリードギターです。これはアンディ・スタットマンとアート・リンゼイの影響が強いです。

−−「貧乏人の歌」(3rd)と同じような、芯の太いネアカさというようなものを感じますが。

集平/ぼくらがかつて憧れたアメリカン・フォークミュージックの良さって、そいうところなんじゃないかな。小細工がないんだよ。使ってるコードも3、4個しかないしね。長調でしょ。そういう人間の図太いネアカさみたいなものがあるね。
 日本人が曲書くと、マイナーが多いし、ちょっと小細工を効かせた細い曲になりがちなんだ。単純さでいけば童謡みたいになっちゃう。大人が歌う歌で、スリーコードで図太く言いたいことだけ歌うっていうのはあんまりないからさ。日本人のカントリー好きっていうのは世界的にもすごいものがあるんだけど、ひとつは、そいつが絶望的に自分らにないものだからだと思うよ。
 ここまで聴き通して、雑然と並んでるけどストーリー性があるなっていうのに気づいてもらえるといいんだけど。ちょっとしたラブストーリーになってると思うんで。

−−「遠雷」

集平/これは'92年に長崎放送でぼくのラジオ番組をやった中で長崎の児童合唱団に歌ってもらったものなんだ。5人の女の子が歌ってくれて、とても気に入ってるんで今回少し音処理して使わせてもらった。

クン/いい歌だよね。

集平/長崎賛歌。こういう子どもの歌が欲しかったし、自分でもこの歌詞の通り耳鳴りみたいに長崎の音がいつも聞こえてるんだよね。

−−ロックのアルバムの一番最後に子どもの歌声を入れたのはなぜなんですか。

集平/ぼくがちょこっと参加した高田渡のアルバム『ねこのねごと』の冒頭で、渡さんは歌わずに自由学園の子どもたちが「おじいさんの古時計」を歌ってて、いいなと思ってたの。今回アルバムの構成考えるときに、じゃあぼくは最後に持ってきちゃおうと思って入れたんだけど。
 よく聴くと、4番の歌詞に「浦上の鐘の音が〜」というところがあるんだけど、何人かの子どもが浦上って歌わずに「ムラカミ」って歌ってんだよ。子どものことなんで許してやってください。あれは「ウラカミ」ですね。なんか歌が下手だしね。歌い出しと歌い終わりとで音程ズレちゃってるんだけど、長崎の子どものいいところが出てる。いじけてない。いい意味でいえばのびのびしてて、悪い意味で言えば恐いもの知らずで、危なっかしいんだけど、でも素直でね、かわいいんだ。この曲をシングル盤で出そうかっていう話もしてたんだけど、とにかくみんなに聴いて欲しかったんでね。ぼくが歌うとご詠歌みたいになっちゃうから、やっぱり子どもが歌うのがいい。ざらざらしたぼくのアルバムを、最後はきれいな風で一掃してしてくれる。ラブストーリーの主人公は旅先で長崎のことを想っているわけだ。

クン/まるで精霊流しの花火のように、浄化してもらって。しかし、『ワカンナイド』というタイトルで「遠雷」が最後というのは意味深長ですね。

集平/今回初めて(!)自分で作ったジャケットデザインにも注目してください。絵も字もマックで作りました。帯だけアナログです。

('96年8月6日 長崎 シューヘー・ガレージで)


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