今回の原画展について 長谷川集平



 原画は印刷のための素材、とぼくは考えてきました。お酒を造ったあとの酒粕、豆腐を造ったあとのオカラ、そんなもんだと思ってきました。だから原画を仰々しく見せて「やっぱり絵本よりもきれいですね」とか「この色は印刷では出ないですね」なんて言われるのなんてサイテーと思ってきました。
 読者の手に届く本こそが作品なのであって、それが良いものにならなければ、いくら立派な原画を描いてもしようがない。今回展示される『トリゴラス』や『あしたは月よう日』を見てもらえばわかると思いますが、これらは単にスミ一色の修整だらけの版下であって、製版の段階でレイアウトし色をつけ字を入れているのです。極端な場合は原画がない。ここのところ、ぼくはコンピュータで絵を描く機会が増えていて、たとえば新聞連載「エイジ」の挿絵などは原画がありません。持っているのは二進法のデータだけです。それでいいのだ、と思ってきました。
 原画よりも、あなたが手に取るその、複製された印刷物がかけがえのないオリジナルなのです。

 それで、これまで原画展というのをほとんどやったことがないのです。複製芸術というのは限られたギャラリーから解放されて作品がどこへでも出かけていくところに本質があります。複製技術の進歩によって、芸術は大衆に、そして世界に開かれてきたのです。現代の図書館運動も複製芸術の産物です。なにかにつけて原画展をやりたがり、ちやほやされたがり、特権的なギャラリーに後戻りし、サロンに堕する同業者への反発もぼくにはありました。それで、かたくなに原画展を拒否してきたのです。

 今回、能登川町立図書館の才津原哲弘さんの熱意に心動かされて、26年の作家生活で初めての大がかりな原画展をさせてもらう気になりました。原画をこそ見てほしいという願望が大きくなってきていたのも確かです。

 まず、これらの作品のほとんどが絶版品切れで、読者の手に届かないという現実を知ってもらいたい。今、出版がひどいことになっています。本は使い捨て商品になってしまいました。ぼくだけではなく、多くの書き手が印税収入を絶たれ、発表の機会を失っています。本には本棚でがまん強く読者を待つ時間が必要ですが、その時間すら奪われています。ぼくらの時代を作ってきた大切な作品が読者の手に届かなくなっています。
 おいしい酒粕にはたしかに、ビン詰めされて店頭に並ぶ前の生命力にあふれた酒造りの現場の記憶が残っています。酒粕は酒粕で独立した食品でもあります。志をどこかに置き忘れ、そろばん勘定だけ器用になってしまったシラケた出版状況の中で、あえて酒粕を出して、ぼくらがもともと持っていたはずの手触りや温もりや臭いを思い出してもらうことにも意味があるのではないか。

 原画を大事にする、つまり文化財を大事にするということがだいぶ浸透してきましたが、長い間、絵本の原画は以前の漫画などと同じように軽く見られていました。ぼくの『日曜日の歌』の原画は荒っぽい製版のやり方でまっぷたつに切られて、そのまま版下に貼り込まれてしまいました。さすがに今回も展示ははばかられました。いくらオカラとはいえ、これじゃあんまりです。
 その、何というか、絵本がないがしろにされてきた物証のように『はせがわくんきらいや』の原画があります。日に焼け、台紙と張り合わせた時のペーパーセメントが染み込んで経年変化で変色し、汚され、破れ、何枚かが失われてご覧のように無惨なありさまです。営業のために持ち回られ、ぞんざいに扱われているうちにこんな姿になって帰ってきました。出版社の倒産のどさくさで放ったらかしにされていたのを、探し回ってやっとの思いで回収したのです。
 さらわれて、無理矢理ドサ回りさせられて、ボロボロに傷ついて、指を何本か失って帰ってきた息子を衆目に晒すような感じがして、家から出したくなかったのですが、この原画を手にした才津原さんのきれいな目を見た瞬間、送り出すことに決めました。みなさんにも、まっすぐに見て、感じて、考えてほしいのです。
『はせがわくんきらいや』は絶版のままです。積極的かつ良心的に復刊しよう、出し続けようという出版社はいまだに作者の前に現れません。

 そのような重いメッセージだけではなく、ぼくの作品の持っているバリエーションや陽気さにも触れていただきたいと思っています。ぼくはよく「暗い」だの「堅い」だの「下手だ」だの茶化されます。注意深くぼくの作品を見てくださってる方なら、そんな下馬評は気にならないでしょうけれど、人の目は世間的なレッテルに左右されがちです。作品そのものに向かい合うというのは、意外に難しいことです。
『はせがわくんきらいや』はデッサンばかりしていた二十歳の秋に描いたのです。このころはまだ自分のスタイルが漠然としかわかっていませんでした。その後ぼくは、ずーっと絵の勉強をしてきました。小さな接ぎ木のようなことでもいいから、なんとか先輩たちが育んできた絵画という大木のどこかの幹に連なって、枝をちょっとでも大空に延ばしたいという大それた考えも捨てていないのです。一枚一枚の葉っぱに軽やかな魂を吹き込もうと努力しているのです。見てくれる人を励ますことができたら、と願いながら描いているのです。うまくいく時もそうではない時もありますが、これらの仕事を通してこそ、ぼくという人格は作られつつあるのです。

 最終日、24日(日)に会場で原画に囲まれてライブをします。ぜひ聴きに来てください。働き過ぎで、ずっと一緒にやってきた女房が故障して、2年間楽器を弾けなかったので、これが2年ぶりのライブになります。もう二度とふたりで音楽できないかもしれないとあきらめかけた時期もあったので、すごくうれしい。話が決まった時からわくわくしています。いいライブをするために、ふたりでリハビリに励んでいます。

 ライブ……「生」それが今回の原画展のテーマになるかな。今回だけじゃないですね。結局それはぼくらが人生をかけて取り組まなければいけないテーマです。(2月25日・長崎)



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