トリゴラス


1978年 文研出版 A4変形
空でびゅわんびゅわん鳴っている音は、トリゴラスにちがいない。
男の子が想像する鳥のかいじゅうは、街をめちゃくちゃに破壊し、かおるちゃんを見つけると、「よっしゃ、これでええ」と連れ去ってしまう。
出版当初から男性の熱狂的なファンが後を絶たないというのもうなずける作品。



●書評

 最新作「トリゴラス」にも、少年の鬱屈した凶暴にして性的な想像カが描かれている。真夜中、“びゅわんびゅわん”空に鳴っているあの音は“かいじゅう”にちがいないと想像する少年を描いた絵本である。 それが「トリゴラス」という鳥の怪獣であり、少年の想像によって夜の都市の上空を低飛行している姿は、涙ぐましいまでに、よい。
「トリゴラス」は、めちゃめちゃに都市を壊滅していくが、ついに少年のもっともおそれた“かおるちゃんのマンション”に近づいて、彼女をさらっていく。そして「もう まちに ようはないねん」といって、「トリゴラス」は去っていく。「あの音は ただの風の音じゃ」と父にさとされる少年の顔は、凶相を帯びている。長谷川集平は、少年の永遠の姿を捉えたともいえるが、コンテンポラリーに響き合うものも強烈に備えている、と言ってよいだろう。−−少年の永遠の姿をとら捉えた絵本 草森紳一(アサヒグラフ「絵本とは何かへの解答」より)


(前略)理性の制御を拒否する本能の問題はつねに芸術家をつき動かしてきた。ルネサンスの巨匠、ラファエロやダヴィンチでさえ醜怪な怪獣を作り、描くことに執心したという。「もう、めちゃくちゃや。まち、ぐちゃぐちゃや」という場面、電車をくわえて佇立するトリゴラスの背後一面に町が炎上している。 暗いレンガ色と黒と、わずかな白とでのびのびと子どもっぽく描かれているこの絵は、無声映画を見ているような奇妙な静けさがあり、実際わたしは、ラファエロの絵(『悪鬼を退治する聖ミカエル』)の遠くに燃える地獄の町を思い出したりした。
 発想もさりながら、文と絵との響き合いという点でもこの絵本は見事だ。絵は想像のまかせるまま怪獣(トリゴラス)を追い、それを語る少年の関西弁の声は父親につながる日常に浸っている。(中略)彼の絵は畳の目を太く丹念に描いたりするつつましく貧しい生活志向と、上っつらの写実を排した果敢な心理主義とで貫かれている。(後略)−−長谷川摂子「少年のリリシズム――長谷川集平の絵本――」(こどものともふろく「絵本のたのしみ」より抜粋。'85.12)


これほど巧みに怪獣を介して、子どもの内側を描いた絵本はないだろう。(上野瞭--'87朝日新聞より)


 暫くぶりに「語りたい」絵本が出た。長谷川集平3冊目のオリジナル絵本『トリゴラス』(文研出版)で、文章は全部あわせても原稿用紙一枚にもならないだろう。しかも全文関西方言である。思いきったものを出したもんやと思った。
 (中略)少年の心象風景を、長谷川集平は、みごとに描きだした。しかも、いわゆる「抒情的に」ではない。トリゴラスが大暴れするクライマックス・シーンときたら、一枚一枚が、まるで、かつての怪獣(?)映画名場面全集の観がある。それを、不安と孤独にさいなまれる少年の暗い表情の場面ではさむ組立ては、ちょっとしたものだ。
 色彩も単色に近くおさえ、乾いてかなしい少年の心がどろりと溶けだしたようだ。色がわりした昔の写真のように、心変りしたあとの思い出の苦い昧の色なのだ。

 長谷川集平は『はせがわくんきらいや』『とんぼとりの日々』と、どちらも子どものというか、少年の世界をまことにあざやかに描いてきた。一見、プロテスト絵本と誤読されがちな前者にしても、さり気ない子どもたちの遊びを描くにすぎないようにも見える後者にしても、少年たち同士の心理、生きざまを的確にとらえていた。
 だから、色彩氾濫の当節の絵本の中では、まるでモノクロ映画にしか見えない仕立てなのに、読者である子どもたちにも熱く迎えられてきた。また、自分の裡に「少年」を生かしつづけている大人たちにも強い感銘を与えてきたのだ。(後略)−−今江祥智『トリゴラス』讃(「グラフィケーション」78.10より抜粋)


『トリゴラス』の編集者・松田司郎さんの回想と考察を読む(『子どもが扉をあけるとき・文学論』松田司郎:著 五柳書院 1985年)




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