マイ・ジェネレーション


   今の時代を何にたとえようか。
   それは、子どもたちが広場に座って、ほかの子どもたちに呼びかけて、
   『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。
   弔いの歌をうたったのに、悲しんでくれなかった』
   と言っているのに似ている。(マタイ11-16)




1. アトール・ハイランダーズ、外洋に出て
  Atholl Highlanders, Out On The Ocean (Jigs)

16世紀中ごろ、イベリア半島を出て喜望峰をまわり、インドからマカオ経由で日本に訪れた商人や宣教師のことはよく知られている。しかし、どこかの港で低賃金で雇われ、船底やマストの上で血と汗と涙を流した人たちのこと、彼らがたどり着いた長崎の裏路地で歌い演奏し踊った音楽のことはよくわかっていない。
当時わが国にもたらされたローマ教会の宗教音楽だけが長い間歴史の研究対象にされてきたのはおかしなことだ。忘れられてしまった人たちに「おいでよ、ぼくらにもう一度踊り方を教えてよ」と語りかけながら、ぼくはこのアルバムを始めようと思う。


2. 踊り上手のダッフィー君、眠たそうな目をしたマギーちゃん
  Duffy The Dancer, Drowsy Maggie (Reels)

彼らがもたらしたバックギャモンやカルタ遊びがここ長崎でも流行り、精緻な細工を施されて輸出され、ポルトガルやスペインの人を喜ばせた。
遊ぶ人たちのまわりには、あっちでもこっちでも、いつもウキウキした音楽があっただろう。素敵なラブ・ストーリー、そして嫉妬や裏切りがあっただろう。


3. 南風
  South Wind (Waltz)

南風はポルトガル船を400年前の天草に運ぶ。天草は長崎の南に位置する群島だ。
南風を天草では「ハエ」と呼ぶ。南風を待つ間に港の女と船乗りが歌い踊ったというジグとそっくりのグルーブ感を持ち、南風を意味する「ハイヤ節」が天草から南風に乗って日本中に広まっていった。
三味線のビートを強調するこの種の音楽をホイッスル1本で演奏するのは難しい。ここでは恵みの南風を思い「南風」という名のアイルランドのワルツをゆったり演ってみよう。


4. ちょいと井戸まで、つぎはぎだらけの半ズボン、でんでらりゅう
  Tripping To The Well, The Britches (Polkas), Den-Dela-Loo (Nagasaki)

アイルランドのポルカふたつに続けて長崎に伝わるわらべ歌。ぼくにはこれらは同じ根っこから延びた茎の先に咲いた小さな花のように思える。
「でんでらりゅう」の歌詞は意味不明とされているが、ケルト特有の口三味線、リルティングとかディドゥリングと呼ばれるものを聞いた日本の子どもたちが真似したのかもと思えば楽しい。わけのわからない歌だったから、かろうじて厳密なキリシタン禁令の網をすり抜けて残った。


5. ダブリンまでのでこぼこ道、蝶々
  The Rocky Road To Dublin, The Butterfly (Slip Jigs)

1549年に鹿児島に上陸したフランシスコ・ザビエルが京都まで旅したころは外国人はさほど奇異の目で見られなかった。キリシタンが禁止されて交通が厳しく制限されるまでの100年に満たない間、日本中のでこぼこ道をヨーロッパやアジアの人たちが往来し、活発な文化交流があった。16世紀後半は安土桃山時代、すなわち日本のルネサンス期だ。
和洋折衷の洗練された文物が若者たちを魅了した。彼らは洗礼名でおたがいを呼び合い、今の日本のストリート・ギャングたちと同じように、十字架やロザリオをファッション感覚で身につけた。
彼らが一掃された後の長崎を舞台にしたプッチーニの歌劇「蝶々夫人」が書かれるのはもっと後のことだ。


6. オニールのマーチ、オーグリムの戦い
  O'Neill's, The Battle Of Aughrim (Marches)

領主大村純忠によってイエズス会に寄進され、国内外のキリシタンを受け入れ、極東のローマと呼ばれた長崎は急激な政策転換によって過酷な弾圧を受けることになる。
圧制に堪えかねた人々が1637年蜂起した。天草と島原の住民たちに合流した反幕府勢力が島原半島の古城、原城に立て籠もり、圧倒的多数の幕府軍を勇敢に迎え撃つが、次の年食糧が尽きて落城。城内に残っていた約2万人の女たちと子どもたちは斬首され、生き埋めにされて全滅した。
幕府はこのすさまじい抵抗をその後凄惨を極めるキリシタン排除の口実にした。


7. 黒い安息日、打ち下ろされる槌、金曜の夜
  Black Sabath, The Battering Ram, Friday Night (Rock, Jig, SMiLE)

1639年、長崎の教会や福祉施設が破壊され、すべてのキリシタンが追放された。
「打ち下ろされる槌」はイギリス政府がアイルランドの貧しい家々を破壊した様子を軽やかな音楽に記憶させたものだ。
不吉な予告に始まり、槌が打ち降ろされる様子を目撃し、再建への希望に至るこのメドレーを、ぼくは尊敬するオジーとブライアンに捧げる。ロック・ミュージックはへこまされてもへこまされてもよみがえるのだ。


8. じごく様の歌
  The Song Of The Hell (Nagasaki)

長崎のカクレキリシタンに伝わる歌。信仰生活をカモフラージュし、ラテン語の祈りや聖歌をひそかに歌い継いでいくうちに本来の意味を失い、メロディーの抑揚を失った。そういう声を押し殺した「オラショ」とは別に、これは彼らが特別の儀式の時に声を出して歌う歌。歌詞は日本語で、声を出して歌うにしてはあからさまな内容なので、比較的新しい歌なのではないかと思う。


9. ホーハイ節
  Ho-Hai Bushi (Fork song of Tsugaru)

禁制下、長崎のキリシタンの多くが海外や国内の僻地に追放された。もともとアイヌ民族の土地だった本州の北端、津軽に流された人たちもいる。津軽にはジグやリールを思わせる独特の三味線音楽があり、民謡の宝庫と言われる。
津軽民謡「ホーハイ節」は不思議な節回しを持ったヨーデルのような歌。アイヌ民族の野性と、キリシタンとともに伝わったケルト民族の哀愁がこの歌に混じってぼくには聞こえてくるんだけど、そんなことを指摘した人はだれもいない。


10. 風さん、おばあちゃんの橋の向こうに、櫓歌
  Mr. Wind (Hasegawa), Over Grand-Ma's Bridge (Chinese children song), The Oar Song (Nagasaki)

1曲目の短い歌はぼくが10歳のころ書いた。なぜか日本の伝統的な音階と違う。
次はチャン・イーモウの映画で覚えた古い中国の子どもの歌。
最後は長崎に伝わる中国の歌。中国の明と清の時代の音楽が、ヨーロッパ音楽が禁じられた後の長崎で流行り、全国に普及した。しかし明治時代に日本軍が中国に攻め入った時、下品で日本人にふさわしくない音楽として禁止され廃る。


11. 人間の権利、何度も押し寄せてくるもの
  The Rights Of Man, The Sweeps (Hornpipes)

開国し、皇居を京都から東京に移し、明治時代が始まった1868年になっても禁教は続き、あらたに捕らえられた信徒が拷問を受け、棄教を迫られた。
1873年、長崎にいたオランダ高官の抗議によって明治政府はしぶしぶ禁教を解除した。長崎の浦上地区の信徒たちはこれまでの宗教的二重生活をイエス・キリストに謝罪し、山の頂上に大きな十字架を立ててミサをあげた。
1945年、アメリカ軍が長崎市の中心部に投下した原爆は南風に乗って的をはずれ、浦上上空で炸裂した。そして戦争が終わった。


12. 聖霊の続唱
  Sequentia : Veni Sancte Spiritus (Takada)

現代日本の偉大なカトリック作曲家、亡き高田三郎は西洋の古い宗教音楽と日本の古い宗教音楽を、その研ぎ澄まされた思想と情熱と霊感によって見事に融合させた。ぼくは彼の作った聖歌を教会で歌う時、深い感動を覚え、思わず泣いてしまうことがある。(集平註:ここは間違えて英訳されていました。「西洋の古い宗教音楽と日本の古い宗教音楽を」ではなく「西洋の古い宗教音楽と日本の古典芸能を」)


13. 肉屋のマーチ、結婚式に急げ
  The Butcher's March, Haste To The Wedding (Jigs)

長崎では精肉業に就く人の多くはカトリックだ。近所の愉快なお肉屋さんとぼくは友だちだ。


14. ケイティ・モロニーのポルカ、リスドゥーンヴァーナ
  Katie Moloney's, The Lisdoonvarna (Polkas)

さあ、そしてまたシンプルなダンス・ミュージックからやり直そう。ぼくはこのアルバムをすべてジェネレーション製D管ホイッスル1本で吹いた。
故マイコー・ラッセルのティン・ホイッスルとぼくのが同じジェネレーション製の安物だなんて、なんだかうれしくてニコニコしてしまう。

長谷川集平



※以上は下書きを米澤千波さんが翻訳してくださった英文にそって手直ししたものです。英文と表現が異なるところがあります。ご了承ください。


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