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コラム11
抜刀隊の歌
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抜刀隊の歌

意外な展開





抜刀隊の歌  2005年11月24日(水)

短調と長調が混在している。教会旋法と言えるかもしれないし言えないかもしれない。そんなヘンテコなメロディが日本にはありますね。それを、ぼくは「My Generation」以降、ティンホイッスルや月琴でやってみてるんだけど、たとえば「天然の美」や「たけす」明清楽もそうだし、焼き芋屋の呼び声がグレゴリオ聖歌と似ているという外国人の指摘ももっともだと思うところもあって、その辺の、いわゆるヨナ抜き(ドレミソラ)ではない日本のメロディーに興味を持っています。

それプラス今回、西南戦争が生んだ「抜刀隊の歌」というのがひっかかってきた。これは明治初期の日本軍に招かれたフランス人ルルーが書いたメロディーで、この不思議な転調をくり返し聴いていると、彼は来日してあまり間がないのに日本の俗曲の特徴をするどくつかんでいる。この歌はやがて「陸軍分列行進曲」になって、長い間、戦意高揚に利用され、今も海上自衛隊は「軍艦行進曲」、陸上自衛隊は「陸軍分列行進曲」がテーマ曲みたいになっている。高揚しちゃう、血が騒ぐというのは、やはりそこに日本人の秘密があると見ていいと思うのね。こういうところでも西南戦争は現代にまで影を落としているわけですね。

寄席(囃子)や芝居小屋、映画館や路上(チンドン)で人々をわくわくさせてきた定番メロディ「たけす」と「抜刀隊の歌」の類似性が気になってしようがない。明清楽もね。文部省唱歌的なヨナ抜きにではなく、この混沌としたメロディーとリズムに日本人の心の秘密が隠されている。
ホイッスルで吹くとケルトとアジアの臭いがぷんぷんしてくるんだなあ。こういうのが気になってしようがないこと自体、たぶん何かのきざしだと思うので、何か見えてきたら報告しますね。

写真●「美しき天然」歌碑。2006年7月17日 佐世保市。




意外な展開
  2005年11月25日(金)

「抜刀隊の歌」のことを調べているうちに、ここ掘れワンワンという感じで意外な展開が見えてきました。

まずは、この歌が作曲者ルルーのちょい先輩にあたるビゼーの「カルメン」の中にある「アルカラの竜騎兵」の盗作であるという説。それで、ルルーは帰国後発表した楽譜集にこの曲を載せなかったというのですが、当時は著作権などないし、今ほど音楽にオリジナリティを求めてはいなかったので、これはないでしょう。実際に似ているといえば似てるぐらいのものですし。ビゼーのあの曲にしたって盗作か流用かもしれない。
要するに、いかにもスペインの竜騎兵の音楽と思わせるメロディーなんだと思う。うがった見方をすると、スペインの兵隊さんの音楽ということはケルトに少々イスラム風味が混じっているというところかな。

日本の庶民が初めて西洋の音楽に触れたのは(キリシタンの記憶が表面的には失せた江戸末期以降の話)軍楽隊の演奏だったといいます。軍楽隊は当然のごとく「抜刀隊の歌」を演奏しますね。このメロディーは日本人の心をとらえ、やがて類似した歌を生んでいきます。

驚くよ。添田唖蝉坊の「ラッパ節」がそうだという。「ラッパ節」は「十九の春」を生む。唖蝉坊はやがてわれわれの時代に高田渡を生む。高田渡が沖縄で「十九の春」を録音するのも、本人が気づいていたかどうかは別として、実に深い根っこを持つ枯れ木に咲いた原色の花のようなことでありました。
子どもが真似する。やはり西南戦争を歌った「一かけ二かけ」という手まり歌になる。これに類似した童歌がいっぱいある。

そしてそして、軍楽隊上がりの人の職場といえば映画館、「セロ弾きのゴーシュ」は町の映画館の楽士でしたね。あそこではお上品にベートーヴェンなんぞの練習をする場面がありますが、現場ではもっとやんちゃな音楽が必要です。悲しい場面ではよりうら悲しく、チャンチャンバラの時には勇ましい行進曲で囃す。無声映画の伴奏をするわけだ。これがトーキーの時代にリストラされる。しようがないからチンドン屋に身をやつす。

今でもチンドン同士が集まると、まずは手ならしとばかり「たけす」を合わせるらしいですが、その「たけす」と「抜刀隊の歌」がどこか似ているのは、同じ血を受け継いだ親戚同士だからなのかもしれない。
長崎くんちのシャギリなんかもこの血統をたどると同族だったということがわかるだろうとぼくは思ってます。「でんでらりゅう」はここんちの私生児みたいなものですかね。

「抜刀隊の歌」は転調をくり返すので、明治初期の日本人には難しかっただろうと言われているのですが、それはたとえば、当時の人が走ることもできなかったように(軍隊で教えたそうです、走り方を)、歌を忘れたカナリヤ状態だっただけのこと。実はこのメロディーは日本人の深いところを動かす、日本的なものだったので、一度歌えたら一生忘れない質のものでした。
これは西洋近代音楽の転調ではなく、モード(旋法)が移ろっていく中世以前の音楽なのであって、アイルランド音楽に色濃く影を落としているのがこのタイプの音楽なんですね。ぼくの推理では、それはキリシタン時代に下層民が日本に伝えた音楽の中にもあり、日本人の心の底で響き続けたなつかしいメロディーなのだと。
日本人はグレゴリオ聖歌を聴くとなつかしいと言いますね。「やきいも〜、い〜しやきいも〜、おいしいおいもだよ〜」という声を聞いて「なんであのオヤジは路上で聖歌を歌ってるんだ」と聞いたガイジンがいたというのも、まんざら作り話でもなさそうです。

ぼくは前に「武士道を右翼だけのものにしておくのはもったいない」と書きました。同じように、このような音楽の流れを右翼だけのものにしておくのはもったいないと思うのです。「抜刀隊の歌」を吹奏楽にした「陸軍分列行進曲」は今も演奏されますが、学徒出陣の時にくり返しくり返し演奏されたので、このメロディーを聴いただけで悲しくてしようがないというお年寄りも多いのです。
でも、戦後教育を受けたぼくらからは、このような音楽は遠ざけられていたのです。それで、日本音楽についての認識に大きな穴が空いてしまった。連綿として続いていたはずの音楽の歴史のある部分が空白になってしまっている。日本音楽は(音楽だけではないですが)記憶喪失になってしまったとぼくは感じています。

今、フォークやロック、歌謡曲、日本のポピュラー音楽はほぼ完全に西洋近代に覆われていて、和音でタテ割りに音楽を区切っていく、コード表つきのになってしまっています。駅前でジャンジャカ、芸のないギターをかきならして青臭い声で歌ってる若者にまで、西洋近代が浸透しています。
こういう音楽に慣れてしまってると、たとえばいきなりアイルランド音楽の伴奏をやろうと思ってもできないんですよ。ギターの心得がある人はやってみればわかると思う。アイルランドのダンス音楽やエアーがそうだし、「抜刀隊の歌」にしても「たけす」にしても、コードで追っかけていくと悲惨な結果になると思う。なんとかつじつま合わせで音楽を細切れにして、ひんぱんにコードを変えるやり方だと流れが途切れて生気がなくなってしまう。

ぼくは、この手のギター伴奏といえば、マーティン・カーシーをまっ先に思い浮かべるけれど、結局、主旋律にぶつける対旋律を作るしかないわけで、だからアイルランド音楽というのは基本的にユニゾンなんですね。アイルランドのアコーディオン弾きはコードボタンを普段は使いません。
ぼくらは、日本人はハモれないという劣等感を、これはたぶんプロテスタントの讃美歌から出たハモリ教養人、芸大を頂点とするピラミッドの上層にいるセンセイ方に植えつけられているけれど、そんな和声音楽の歴史はむしろ浅いのだということを知るべきだと思う。
明治大正期の演歌師たちがヴァイオリンを好んだのは、日本の大衆の歌の伴奏は和音ではなくユニゾンか、ドローン、またはいわゆるリフがふさわしかったからだろうと思います。月琴や三味線、尺八の伴奏だってそうですね。そこに味わいがある。ギターでジャンジャカはまだ日本人の心の深いところに届く境地まで達していない。達してるのもなくはないけどね。まだまだ。

……おっと、結論を急ぐのはやめましょう。いろいろなことが急に連鎖してきたので、やや興奮状態にあります。

西南戦争の前年(明治9年)に熊本の不平士族が決起した「神風連の乱」というのがあり、それに触発されて福岡では「秋月の乱」、山口では「萩の乱」が勃発して、あえなく鎮圧されます。その秋月が、ぼくの母方の祖父が出た夜須のことだったということを知って、それもまたびっくりの事実でありました。秋月氏は夜須に流された外様大名だったそうです。あの辺にはキリシタン遺物もありますからね、あやしいんだ。また行ってこよう。

城島、マリナーズに行きますね。
写真 上●田原坂古戦場、美少年像。2005年11月20日 熊本市。
中●同地、土壁に残る無数の弾痕。
下●西郷隆盛銅像。90年代 鹿児島市。



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