SHUHEI'S BLACK BOX SINCE 1996
ブラック‐ボックス【black box】 機能は知られているが、内部構造が不明の装置。または飛行データ記録装置。----『大辞泉』より

 『大きな大きな船』(2009年)より

エッセイ「ベガーズ・バンケットの招待状」

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●ひさしぶりに書く。ブランクの初めのうちは絵本の仕事がぱったり止まってしまって気力が出なかった。去年の暮れごろからは「聖母の騎士」誌の手伝いに集中していた。新体制の編集作業がやっと軌道に乗りかけている。
ここにまた書く気になったのはライ・クーダーの新譜『プロディガル・サン(放蕩息子の帰還)』を聴いて、書かなきゃ! と思ったから。
1970年代はライのレコードをよく聴いたが、80年代は聴かなかった。ぼくらの演る音楽との接点がないような気がしていた。90年代以降のライがアイルランドのチーフタンズと組んで『サンティアーゴ』や『サン・パトリシオ』などいい仕事をしているのは気になっていた。イタリア系カトリックだということを知ったのはそのころだったと思う。それが、こないだのあおちゃん(あおやぎとしひろ)の書き込みを見て、直感的にこれはいいぞと思ったのだ。直感は当たりだった。

内にも外にも「放蕩」して、年取ったライ(写真)が帰ってきた、それはそうなのだが、前よりも音楽に含蓄が増し、同時に軽やかになっている。奇跡みたいに感じた。それでSNSにこう書いた。「…おかえり! ライ、というかね、放蕩息子は好き勝手したあげく回心して帰ってくるわけだけど、出かける前よりはるかに良くなっている、そのことをこのアルバムはわからせてくれる。だから『父』は彼を歓迎するのだということも」

書きたいことはいっぱいあるが、ここではアルバムの最後から2曲目「ジーザス・アンド・ウディ」のことを書こう。あおちゃんが英語の歌詞にリンクを貼っていたので、試しに訳して、こりゃすごい! と思った。下に載せるのは、日本盤の対訳も参考にしながら手直ししたものだ。
天国でイエス・キリストがウディに話しかける。ウディとはもちろんフォーク・ソングの父ウディ・ガスリー。彼がいなかったらボブ・ディランも高田渡もライも、ほとんどのシンガー&ソングライターはいなかっただろう。ライ・クーダーは若いころからウディの歌をしばしばカバーしている。この歌詞の中に出てくる「自警団」という歌も歌っている。スタインベックの『怒りの葡萄』の時代を生きたウディにとって、避難民の仲間内から出てきた自警団は初めから抑圧者側にいるギャングや警察よりも不気味な存在だった。

この歌詞はディランがファースト・アルバムで歌った唯一のオリジナル曲「ウディに捧げる歌」のはるかかなたにあり、ジョン・レノンが「イマジン」で歌った「ドリーマー」の読み直しではないかとぼくは思う。ワンテイクで録音された、静かなスリルを秘めた歌をじっくり聴くと、ぼくらが次にするべきことが見えてくるような気がする。18/05/21

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イエスとウディ(詞曲 ライ・クーダー)

さあ、その古いギターを抱えて
ここに座ってくれないか
天の玉座の私のそばに来て
オクラホマ訛りの歌をひねり出してほしい
なぜなら、戦争が始まったようだから

石油戦争のことではない
金政策や民族紛争やそんなことではない
自警団が行動に出たと
ニュースで聞いたのだ

「わが祖国」など、あなたの歌を聞かせてくれないか
きっとファシストは退散するだろう
ミスター・ガスリー、あなたは夢見る人だった
私も夢を見る

ヘイト集団に愛を説いたことがある
骨の折れることだった
復讐の落とす影は正義を歪めてしまう
破壊と痛みをもたらすだけだ

あいつは罪人とつき合ってると私は人に言われる
今言おう、その通りなのだ
ファシストよりも罪人を私は好む
そのように私は夢を見るのだ

1945年、大量殺戮兵器が落とされた
多くの人が闘い死んだ
けれども、一番心に残るのは
罪のない子どもたちのこと

こんなに長い間、私は救世主だった
どれもこれもずっと見てきたことだ
善人たちよ、おたがいにより良くありなさい
もう二度とチャンスは来ないかもしれないのだから

彼らは憎しみのエンジンに点火した
それがあなたがたを寂しく憂うつにさせている
そうだ、私は夢見る人
ミスター・ガスリー、あなたも夢見る人だった



トクサ文庫6冊目『ベガーズバンケット』を出して梅雨が明け、夏が過ぎようとしている。
初めてキリスト教文学作品を本にした。何度も読み返しながらいろんなことを考えた。

ぼくはキリスト教嫌いだった。クンと出会ったころ、クリスチャンの彼女をよくからかって口喧嘩した。キリスト教が世界をこんなひどいものにしたと思っていた。般若心経を持ち歩き、ヨガや玄米食に凝り、物理学と東洋哲学の本ばかり読んだ。
時代がそんなふうだったし、ぼくは母の影響が大きかった。母は少女時代に近くのプロテスタント教会に熱心に通ったらしい。でも、洗礼を受けなかったのは、原罪という教えを受け入れられなかったからと言っていた。「私、何にも悪いことしてないのに、そんなこと言われても…ねえ」。女らしくなって、牧師に不意にキスされて、それがすごく嫌で教会に行かなくなったと言っていた。思春期にそんな話を母から聞かされたぼくがキリスト教を好きになるはずがない。

最近、父も母も牧師より賢明な○○派だったと弟が書いてるのを見て、そこまで人の記憶は脚色されるのかと呆気にとられた。父はキリスト教を毛嫌いしていて、何かのお祝いにクンが聖書をプレゼントした時に激怒した。弟からも失礼だと叱責された。母は「お父ちゃんが死んだら、洗礼受けようと思う」と、以前と違う考えをぼくに言った。

その後、意外にも両親も弟も洗礼を受ける。それはぼくが遅れてきた幼児洗礼みたいにしてカトリックになった前後の出来事で、ぼくに逆らうように3人ともプロテスタントになってしまったのだった。ぼく以外全員プロテスタントになってからは、実家に帰っても心の置き所がなくなった。
カトリックとプロテスタントは社会的にも個人的にもなかなかうまくいかない。家庭内アイルランド闘争と、ぼくは人に説明することがある。キリスト教の真髄は愛なのに何やってるんだろう、まったく。

近ごろ、偶然とは思えないタイミングで長崎・聖母の騎士修道院の今年なりたての院長・山口雅稔神父と知り合った。初代院長は聖コルベ神父だ。かつて北関東のギター少年だった山口神父とはなぜかウマが合う(上の写真はシューヘー・ガレージで2人でギターを弾いているところ)。『ベガーズバンケット』もすぐに読んで気に入ってくれて、なんと「聖母の騎士」誌に連載しないかと言ってくださるのだ。聖コルベが創刊した月刊誌だ。
デビュー41年目にして初めて、まったく何の疑問もなく、無理をせず、すべてを委ねられるメディアにたどり着いた。「イエズス・マリア・ヨゼフ、あなたのために、いい仕事ができるように助けてください」とぼくは長崎に来てから毎朝祈り続けてきた。
『ベガーズバンケット』の続きはこれしかないと思って、幼年童話の試案を神父に送った。神様がぼくをお使いになりたければ、新しい仕事が動き出すだろう。17/08/27



●イエス・キリストを着なさい(ローマ:13章)という難しい表現が新約聖書のパウロの手紙にある。わかるようでわからないまま来た。それが、ひょんなことで腑に落ちた。某ブログのこんな言葉をきっかけに。

今回のスコセッシの映画「沈黙」は、正統的な教義と信仰理解に対する、少なからぬ挑戦と告発です。(中略)それは、日本人・遠藤周作が日本でキリスト教を意図的に「日本化」へ誘導しようとしたことと方向性と目的が一致しています。

そして、この人は「戦後日本のポピュリズム(大衆迎合主義)に日本のカトリックを同化させようと方向づけ」たと流行りの言い方で遠藤周作を批判している。

ぼくの実家は別誂え(べつあつらえ=オーダー)の洋服店だった。父が客と念入りに生地を選び、デザインを決め、身体の寸法を測り、熟練の職人が丁寧にこしらえる。仮縫いをして修整をしてというプロセスを父は嬉々としてこなしていた。的確なアドバイスをするために勉強していた。「別誂え」に誇りを持っていた。

高校生のころ、音楽雑誌のコラムを読んでひっくり返りそうになった。著者は当時のお洒落なミュージシャン、かまやつひろしか加藤和彦か他のだれかだったか(わかる人がいればご教示願いたい)、自分の不細工な身体に合わせて作った服よりも、カッコ良くデザインされた既製服に自分を合わせる方がいいと書いていた。それまでぼくが安住していたところから、このコラムは一瞬でぼくを外の世界に引っ張り出してくれた。

ヨーロッパはキリスト教をヨーロッパ的にアレンジしたという説はもっともらしく見える。日本人なのに似合わない洋服を着せられたと12歳で受洗した遠藤周作は思い、もっと母性的でやさしい和服のキリスト教を想像した。
しかし、ヨーロッパをヨーロッパ的にしたのはキリスト教だったし、アフリカをアフリカ的に、アジアをアジア的に、アメリカをアメリカ的にしたのはキリスト教だった。それぞれの文化と出会いながら、キリスト教はより普遍的なものに変わってきたのだ。
イエスの時代に近いほど本来のキリスト教に近いと言う人は、イエス・キリストを弟子のだれ一人理解せず、従えなかったということを忘れている。書かれた時にはよくわからなかった曲が、世代を経て生き生きとした演奏と解釈にたどり着くようなことが、信仰の歴史にもあったのだ。

あなたの自由にしなさい、自分で選びなさいと小さいころから言われてきた子どもたち。自分で選んでいるつもりで、結局まわりに合わせている。それでいて自分はちょっと違うと思っている。個性といってもユニクロの色違いみたいなものだ。流行という安全パイに頼り、軍服や制服も悪くないなと思う。教育勅語という和服を着せられた子どもたち…そうじゃない、キリストを着なさいというパウロの言葉は今のぼくにはわかりやすい。キリストはだれにでも似合い、着た人のいいところを引き出してくれるだろう。17/03/25



「なにを為すのであれ、今から7世代後の子供たちへの影響を考慮して行われなくてはならない」というチェロキー族の言葉を友人がリツイートしていた。7世代……

ドイツの児童書は3代読み継がれることを前提に作られると聞いたことがある。目先しか見ていないこちらの業界との差を感じる。
映画「ウルガ」(監督:ニキータ・ミハルコフ 1991年)に「お前の曾祖父(ひいじい)さんの名前を言えるか?」と聞いてまわるロシア人がいた。言える? その人からどんな影響を受けた? 伝統を受け継ぐ家の人なら言えるのかもしれない。ぼくは言えない。

7世代後の世界なんて、まるでSFみたいな話だが、17世紀の過酷なキリシタン迫害下、長崎の信者のために働いたバスチャンという名の日本人伝道士は「7代耐え忍べば、再びローマからパードレ(司祭)がやってくる。どこででも大声でキリシタンの歌を歌って歩けるようになる」と予言したという。そして、本当にそうなったのだ。

1865年、前年に外国人のために建てられた大浦天主堂(写真)のフランス人主任司祭・プティジャンに、密かに受け継いできた信仰を打ち明けた浦上の信者たちは世界を驚かせ、奇跡と称えられる。それをきっかけに幕府と新政府の大弾圧「四番崩れ」が始まるが、それぞれの流刑地から荒れ果てた浦上に帰ってきた人たちは7世代250年を経て本来の信仰を取り戻した。
女性たちはド・ロ神父の指導のもと、1874年(明治7年)子どものための養護施設を作った。それが今も続く日本最古の孤児院・浦上養育院だ。それから信者たちは踏絵をさせられていた庄屋の土地を買い取り、自分たちの生活を投げ打って浦上天主堂を建てたのだ。

殉教者だけが信仰の英雄ではなかった。遠藤周作の『沈黙』はそこを見落としているんじゃないだろうか。歴史の表舞台に立たず、子どもの生命を守った人たち。彼らが「沈黙」の中で親から子へ、子から孫へとバトンタッチしていった緩(ゆる)みのない伝承からぼくらはもっと学べるんじゃないかと思う。17/01/20



シューヘー・ガレージ出版 トクサ文庫 第1弾『長崎未満』(長谷川集平)アマゾンで販売開始しました! やっと多くの人にお届けできます。絶版も免れます。500円です。ぜひ、お求めください。Kindle端末がなくても無料アプリで読めます。
商品ページの「利用可能な端末」というところを見てください。ほとんどの端末で読めると思います。スマホでもオーケー。無料サンプルもあるから、立ち読み感覚でどうぞ。


…とSNSに書いたのは12月5日。ようやく生産者直売の道筋がついた。「食材」は山ほどあるので、どんどん料理して提供したい。読んでほしいぼくがいて、読みたい人もいてくれるのに、デビューして40年絶え間なく、出版と流通の壁に阻まれていた。絵本の電子出版にはまだ疑問があるが、テキストの電子出版はすでに青空文庫などで経験済みだし、ぼくもKindle Paperwhiteを愛用している。紙の本のように読め、何百、何千冊を携行できるKindle Paperwhiteが電子本に対するネガティブな先入観を取り払ってくれた。
電子本化のノウハウや、複雑そうに見える販売の手続きをクリアできれば行けると思っていた。数ヶ月は試行錯誤だった。ほとんどの作業をこなしてくれたスタッフ曽我に感謝する。
500円で売って、紙の本の1,500円より印税が多い。この倍の印税を設定することもできるが、そうなると無料配布などを受け入れなければならない。その方が売れるとアマゾンは言うのだが、しばらく様子を見たい。

クンが1995年にハードディスクが2ギガバイトのマッキントッシュを70万円(!)で買い、まだ利用者の少なかったインターネットのホームページを作り、プログラミングを独学して、身体を壊してまでサーバを立ち上げたこと、そして曽我に編集を教えるつもりで始めた「シューヘー通信」を20年近く作り続けたことが今回のKindle出版につながった。これならぼくら3人でこなせる。

前回の記事で新作絵本の編集を突然放棄されたことを書き、呆然としている写真を載せた。その後、ここに何も書かなかったのは、ずっと立ち直れないでいたからだが、やっと自力でこのトンネルから出られそうな気がしてきた。わが作家人生の転機になりますように。
前に転機だと思っていたエキスパンドブック形式の電子出版やオンデマンド出版は短期間で頓挫した。エキスパンドブックは不変のフォーマットではなかったし、オンデマンドといっても利害が絡んでくる。
あのころと違って、すでに電子本出版の標準になりつつあるKindleがこのまま伸びていけば、ぼくの本も読者を増やすだろう。こいつに賭けよう。みなさん、ぜひ買って応援してください。16/12/10



くたびれはて、やっとたどりついたアパートで死んだ時、ポケットに千円札一枚しか持ってなかったと聞いて、ああ、ぼくはブタだと思いました。叔父の仕事は、お金と無関係でした。お金のためじゃないとしたら、何のために仕事していたんでしょうか。──『見えない絵本』(89年 理論社)あとがきより

上の文章を書いたのはバブリーな東京。ぼくは今より金持ちだった。その4年前、54歳で亡くなった叔父・浦山桐郎。「オレは自分のために映画を撮ってないよ。どうしてそれをわかってくれないんだろう」とアイツ泣きじゃくるのよ、と夫人に聞いた。あれから約30年、ぼくにはまだブタの部分が残っているが、叔父を見習わなきゃと自分に言い聞かせてきたのだ。泣くところは真似しないけどね。

先日、綱(つな)美恵さんに新刊絵本の編集を途中放棄された。彼女は去年、解放出版社を定年前退職して、前からやりたかった飲食店を出した。お店のロゴはぼくが描いた。編集とお店の二足のわらじ、大丈夫かなと心配だったが、綱さんは集平さんの絵本はやります、お店がうまくいかなければ未練を残さず閉めますと言ってくれて、じゃ、どちらかがクタバルまで絵本の世界に貢献しましょうと約束したはずなんだが、お店が大事になってしまったようだ。

前にも『大きな大きな船』の編集者が突然出版社を辞めて鍼の先生に弟子入りしてしまうことがあった。鍼灸師になるのが夢だったって。センスのいい彼女と組んで仕事ができそうだと思った矢先だった。「自分のため」「生活のため」という切り札を持たないぼくは、あの時も今も迷子みたいな気分だ。

3.11以降『トリゴラスの逆襲』を最後に親しい編集者が辞めたり、理論社がつぶれて準備していた幼児絵本シリーズが出せなくなったり、出版の機会が減っていく中、綱さんとの出会いがあり『およぐひと』『アイタイ』『あなに』を作って、これからも一緒に毎年1冊は出したいと思っていたがダメだった。去年出した『天使がいっぱい』と『むねがちくちく』の編集者ともすぐに次を出せる状態ではない。実は、そのうちの一人に突っ返されたテキストを綱さんとやろうとしていたのだ。

『はせがわくんきらいや』が出版されて40年。心身ともにこれまでにないクリエイティブな状態だし、前よりマシなことができそうなのだが、それが出版につながらない。小説やエッセイは単行本何冊分もたまっている。特に長崎に来てから25年間の文章は東京時代に書いたものを補足訂正し、もっと先を示せるものだと思っているのだが……。
出版にはぼくの生活もかかっているが、稼ぎを優先させると大切なことを見失ってしまうだろう。誘惑も多いが、そんな時は浦山や死ぬまで安アパート住まいだった高田渡や、生前恵まれなかった芸術家たちを思い出して自制してきた。
説明は難しいが、ぼくは自分が書きたい(描きたい)本を書いてきたのではない。ねらって書いたのではなく、出版されて読み返すうちに、ああ、こんなことを書いたんだ、書かせてもらったんだと気づくことが多々ある。

今週アタマ、クンの誕生日祝いを兼ねて五島旅行をした。帰ったら描き始めるはずだった絵本がそんなことになってしまって、旅の間ずっと心にすきま風が吹いていた。上の写真は三井楽で昼食に寄った店で海を眺めながら、さて、どうしたもんかとグルグル考えているぼく。いい写真だねと言われてしまった。君看雙眼色 不語似無憂(白隠)16/07/16



●長く使ってきたiMacがSNSや最近のコンテンツに対応できなくなってきた。フェイスブックに写真をアップするためにサイトに置いてリンクするような面倒臭いことをしていた。とうとう買い替えの時が来たか、それにしてもシューヘー・ガレージの3台と周辺機器やソフトをリニューアルするのは金かかるなあ、どうすっかと悩んでいたところ、5月の連休に17年ぶりの再会を果たしたカメラマン・田川友彦が「使ってないMacBookが手元にあります。送りましょうか」と申し出てくれて、事態が動き始めた。たがちゃん(田川君)の男気に感謝。

で、ぼちぼちデジタル移行中。SNSもストレスなく使えるようになってきた。その間、ここの更新が後回しになってました。便りのないのは良い便りと思ってもらえるとありがたい。
写真は6月30日、ホークスの新しい2&3軍施設・ベースボールーパーク筑後でホークス×カープ戦をのんびり観戦中のクンとぼく。曽我が撮ってくれました。前日は博多ヤフオクドームで今宮選手のサヨナラ・ヒットを見て大感動。
そんなわけで、ザ・ショー・マスト・ゴー・オンです。16/07/03



●エフエム長崎のDJマークがぼくのインタビューをしに、シューヘー・ガレージまで来てくれた。

一昨年の秋、入院していた重症室の献身的スタッフたちに感謝を伝えるクンのメッセージをマークはラジオで読み、ラモーンズの「Do You Remember Rock 'n' Roll Radio?」を選んでフルコーラスかけてくれた。それを聴いて、クンは喜びの涙を流した。病棟の働き者たちにも言葉と音楽が届いた。マークが意図的にラジオで流すグレイトなロックンロールがクンの回復を早めた。

うっくんのレコーディング以来だから、マークと生身で会うのは2年ぶりだ。
ラジオにしかできないことがある。ラジオの良さを再認識させてくれたマーク、ありがとう。昨夜の写真を動かしてみたよ。

♪Radio, someone still loves you! ──クイーン「Radio Ga Ga」より 16/02/10



●『むねがちくちく』についてのメモ:

去年書いた最初のテキストは何人かの編集者に貶(けな)され、突っ返された。今年の春、頼りにしていた某編集長の長文の断りはあまりにも稚拙で無礼だった。こんな人が児童書を作っているのかと思うといたたまれなくなった。しばしブルーになったが、ふと思いついて、前から一緒に絵本を作りたかった童心社の編集者・橋口英二郎さんに送ってみた。月刊「こどもの本」に「読了できない絵本たち」を書かせてくれたのは彼だ。間もなく「出しましょう」と、こちらが拍子抜けするような二つ返事が返ってきた。橋口さんはこう思わないのですか? と、過去の編集者からのクレームの数々を伝えると、こんなメールをくださった。抜粋しよう。

断りの理由を読ませていただいて、わたしには、どれも的外れで、この絵本テキストの核心に触れたものは一つもないと思いました。核心に近づこうとする努力や、意志がはたしてあったのかどうか。(自分のことは棚に上げても)編集者がこれでいいのかと、腹立たしく情けなくなりました。
この業界の大先輩である作家の胸を借りるつもりで、教えを請う謙虚な気持ちで、向かっていくしかないじゃないですか、あとから生まれてきたものができることは。
編集者として、人としての根本がまちがっていると思います。

わたしもずいぶん臆病者ですが、それでも、長谷川集平という作家のつくる作品が好きで、けれども、すべてを理解できるわけはなくて、たいがいは圧倒されて、わからないことが多すぎて、消化不良になりながらも、ずっと気になっていました。
そんなわたしですが、今回は、一読目から、すっと、読んでいくことができました。自分でもおどろきました。でも、きっとまだ、じゅうぶんには読めていないこともわかっていますので、すこしずつ、やりとりさせていただければと思っています。


……うれしかった。橋口さんはぼくの大学出講の日程に合わせて京都まで会いにきてくれて、その日は遅くまで話し合った。彼は二人の女の子が和解するシーンがぜひとも必要だと言う。ぼくも、それをちゃんと書いてないのが気になっていたので、ぜひ入れましょうと答え、それにともなう変更点がいくつかあるなと考えながら長崎に帰った。
夏休みの8月に『天使がいっぱい』の原画を描き、9月に『むねがちくちく』を描いた。それぞれの作品にふさわしい絵のスタイルを探しながら。

長谷川くんや『日曜日の歌』の家族みたいな、『むねがちくちく』の女の子のような鈍臭い人たちをぼくは描いてきた。絵本でまで現実を思い出したくない人には嫌だったかもしれないし、鈍臭さと無縁のエリート編集者やエリート教師や良い子のみなさんにはピンと来なかったかもしれない。実感がなくて「深い」なんて言って済ませたいところもあっただろう。あえて還暦3部作と自称する『あなに』『天使がいっぱい』『むねがちくちく』はどう読んでもらえるだろうか。のんびり見ていよう。15/12/22



『天使がいっぱい』についてのメモ:

たぶん言葉を理解する以前から、ぼくはよく母に「神様が見てるよ」と言われて育ちました。叱られる時も、たまに褒められる時も。まわりの子のように「怖い人が見てる」とか「警察が来る」「吉本興行(またはサーカス)に売る」「オバケが出る」「バチが当たる」などと脅されたことはありません。
そのころの母はクリスチャンではありませんでしたが、少女時代に近所のプロテスタント教会に通ったそうですし、戦後、好意的に紹介されたキリスト教教育の影響もあったかもしれません。実はヒ素ミルク事件の森永乳業もクリスチャン企業ゆえの信頼がありました。粉ミルク缶にはエンゼルマーク(図)が印刷されていました。

いつも神に見られている感覚が、ぼくは小さいころからありました。神という演出家のもと、ぼく以外の人はみんな演技をしている。あの人とあの人が似ているのは同じ役者だからと思ったこともあります。見るなよという反抗心と裏腹に、見られている安心感がありました。まわりを気にする、いわゆる「空気を読む」狡猾さとほぼ無縁だったのは、人の目ではなく神の目を意識していたからでしょう。……こう書きながら「神様が見てるよ」というのは、我慢強い母の独り言でもあったかもしれないと気づきました。

初期パンクの異才ジョナサン・リッチマンとモダン・ラヴァーズの「Angels Watching Over Me」(YouTube)を初めて聴いたのは70年代末、新婚のころ。アメリカの子どものための伝承歌だと知って、そのころキリスト教嫌いだったぼくが、日本にもこんな童謡があればいいなと思ったのは、ジョナサンの歌詞がゴスペル色を薄めたものだったからでしょう。『天使がいっぱい』の見返しにはこの歌の複数のバージョンを組み合わせて書いています。ジョナサンに倣(なら)ってゴスペル色を薄めています。

天使が見守ってるよというメッセージを、母がそうしてくれたように、ジョナサンのように、子どもたちに伝えたいという思いが年々強くなりました。荒んだ世の中、孤独で心細い子どもたちに、ぼくならあの歌のようなプレゼントを絵本でできるかもしれない。

1998年に学習雑誌に描いた7ページの絵物語をもとに、光村教育図書の編集者・鈴木真紀さんとの出会いが、ぼくの長年の思いを一気に絵本にしてくれました。
去年から今年にかけて、妻の入院〜リハビリに付き添いながら描いたのもよかったと思っています。天使が見守り、導いてくれたとしか思えない出来事がいっぱいありました。感謝しています。これからも、どうか見守っていてくださいと祈るばかりです。

複雑な思いでエンゼルマークを描いた『はせがわくんきらいや』から、ずいぶん遠くまで来たものです。『天使がいっぱい』が多くの子どもたちに、そしてオトナたちに届きますように。15/12/05

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オマケ|みっつのスノーエンジェル

 『天使がいっぱい』(2015年)より

 エズラ・ジャック・キーツ 絵本『ゆきのひ』(62年)より

 ティム・バートン 映画「ナイト・ビフォア・クリスマス」(93年)より ※ハロウィン・タウンの化け物が作るのだから天使じゃなくて悪魔じゃないかという声あり。いやいや、だれが作っても天使は天使。それがスノーエンジェルのいいところ。



●以前、フェイスブックで『あなに』の制作経緯を教えてほしいと言われた。絵本が出たのでここに記します。長文ですよ。

この絵本はひょんなことから生まれました。初めは村上康成が文を書き、ぼくが絵を描くはずでした。一昨年、村上が長崎までグローブとボールを持って、ぼくと二十何年ぶりのキャッチボールをしに長崎に来ました。このキャッチボールを絵本にしたいと言います。
忙しいからと待たされて、忘れたころに届いたテキストはどうにも絵本にならない。ひさしぶりに会った中年男がノスタルジーに浸りながらキャッチボールして別れるという話で、ぼくら二人にしかわからないモチーフが回想シーンに出てくる。黒い犬と怪獣…ぼくらが若いころに影響を受けた谷内こうたの絵本『のらいぬ』と、二人で描いたヨット3部作の隠喩なのですが、それをどうやって読者に伝えるか。伝える必要があるのか。すっきりしないまま何度チャレンジしても絵になりませんでした。

ぼくがいろいろ質問しても、作者からも編集者からもなかなか答えが返ってこない。キャッチボールの絵本なのにキャッチボールにならない。それで、編集者に「どんな絵本を望んでるの?」と聞いたら、彼の一番好きな絵本、谷川俊太郎・文、和田誠・絵の『あな』(福音館書店 76年)をイメージしてましたが、だいぶ違いますねと言う。で、ぼくは「たとえば、こんな?」と送ったのが『あなに』のテキストだったのです。
ぼくはぼくで『あな』には特別な思いがありました。当時すばる書房の「月刊絵本」の編集部で新刊『あな』について熱く語り合ったことも思い出しました。講演や授業でも繰り返し『あな』を読んできました。
『あな』をめくりながら、自分のタッチで模写するように書いたテキストです。ところが、編集者はぼくがフザケているとしか思ってくれなかった。
それで、解放出版社の綱美恵さんに読んでもらったら「出しましょう!」と即答が返ってきた。彼女とやった『およぐひと』と『アイタイ』の次の絵本にぴったりです。テキストを書いたのは去年、今年は3.11から4年だから「ふくしまさぶろう」という子の名前を「ふくしましろう」にしましょうと提案してくれた。そのうちに村上との絵本はボツになりました。

それからはトントン拍子と言いたいところですが、妻が倒れて大反省したぼくは慣れない家事を手伝うようになった。絵を描いていると「集ちゃん!」と台所やベランダで妻が呼ぶ。行って、今の妻にできないところを手伝ってから仕事に戻る。その繰り返し。妻のリハビリや治療にもつき合い、1日に少ししずつしか作業を進められない。これまでは一気に原画を仕上げることしかできなかった。こんなふうにちょっとずつ描いたのは初めてでした。
時間をかけて描くうちに、『あな』の和田さんと同じ4色パーセント指定にしようとか、ふくしま君のウエアを東北楽天カラーにしよう、『あな』にスヌーピーのぬいぐるみが出てくるから、ここは九州代表くまモンで行こう、などというアイデアが出てきました。

5月の連休に描き上げ、配本までの準備を丁寧にしたいので秋に出しましょうと言われ、綱さんはそのころ解放出版社を辞めてお店を出し、編集は嘱託に。二足の草鞋を履いて多忙な中の編集作業です。
初めからトラブル含み、編集や印刷もやり直し続き、出版までに間があって助かったなどと思いました。そこをなんとか乗り切って、夏休み過ぎにいよいよ営業の人が見本を持って書店まわりを始めます。あちこちの書店で、これは盗用じゃないかと言われ(東京オリンピックのエンブレム問題の影響もあったようです)、『あな』の谷川俊太郎さんや和田誠さん、福音館書店、くまモンの熊本県の許可は得ているのかと言われて帰ってきます。

パロディーや返歌のようなことは創作の常だし、たぶん谷川さんや和田さんは面白がってくれるんじゃないか、いや、だれに何と言われても気にしないと覚悟を決めていましたが、なんだか今どきのびくびくした書店の反応や、営業や編集のしょんぼりした様子を見て、じゃ、仁義を切りましょう、谷川さんと和田さんに送ってください、くまモンもケチのつかないように申請してくださいとお願いした。そして妻と憂さ晴らしの小旅行に出かけたんです。
そしたら、谷川さんが見本を見てすぐに綱さんに「ぼく、うれしいよ」と電話をくださった。感極まった綱さんが泣き声で熊本にいたぼくに電話をくれて、ぼくも急に明るい気持ちになって、厚かましいけど谷川さんに帯のコピーをお願いしてみたら? もし、もらえたら帯を作り直す価値あるよと提案し、その日のうちに素敵なコピーをいただく。そして、くまモン使用許可を待って、奥付を刷り直して、やっと配本まで辿り着けたのでした。

出してしまったら、多くの読者に届きますようにと祈るだけです。図書館で見るのもいいけど、ぜひ買って応援してください。今年はこれに続けて『天使がいっぱい』(光村教育図書)、『むねがちくちく』(童心社)と新刊絵本が出るので、お金使わせて心苦しいけれど、どうかよろしくお願いします。野球好きの人へのプレゼントにもいいと思います。『ホームランを打ったことのない君に』もお忘れなく。15/10/18



●8月17日に描き上げた新作絵本『天使がいっぱい』(画像右)に食卓をみんなで片づけるシーンを描いた。カミサンが退院してからのうちの日常だ。家庭をよく描いてきたが、片づけのシーンは描いたことがなかった。そんなこともイメージできない、ぼくはホンマにダメ夫だった。

『ボタ山であそんだころ』(14年)で新境地を拓いた石川えりこの新作『あひる』(くもん出版 画像下)には片づけのシーンがちゃんと描いてある。落合恵子の推薦文には絵のことが書かれてないが、えりこさんの絵本は絵をよく見なければいけない。彼女の描く川がぼくは好きだ。
人の表情がワンパターンなのが少々気になる。意識的にそうしているのか、手慣れでそうなってしまっているのか……。しかし最近の描き手の中で、石川えりこの常に写生に立ち戻る、まっすぐで細やかな描写力はずば抜けていると思う。

食べたのはあのあひるだと母親が言わないところが昔の日本らしいと思った。ヒ素ミルク事件のことを子どもがわかるまで話せない『はせがわくんきらいや』(76年)の母親と同じだ。たぶん『あひる』と『はせがわくん…』は昭和の同じころの話だろう。

『ホームランを打ったことのない君に』(06年)で絵本作家の第2ラウンドが始まったと自覚したぼくは、これからは子どもにきちんと応える絵本を描いていこうと思った。『大きな大きな船』(09年)や『れおくんのへんなかお』(12年)もそうしたつもりだ。『およぐひと』(13年)には話したくても話せない父親を描いた。彼の見たものは簡単には言葉にできない。それでも彼はいつか話してあげるよと娘に言う。『天使がいっぱい』には少女の心に、思いがけない安らぎをプレゼントするおばさんが出てくる。
早く見てほしいなあ。順調に行けば11月には届けられそうです。15/08/22



●小学1年生になった航大、彼の母のブログ「日々をつづる」より:

小学校の図書館は、どんな感じ?と聞くと、絵本や難しそうな本がいっぱいある!と嬉しそうに言うので、集平さんの絵本もある?と聞くと、無い!と、ちょっと怒っています。

「あんな、かあか、集平さんの絵本は、全部てづくりやろ。 図書館の本は、全部機械で作られてるねん。 「トリゴラス」とかシェー(「れおくんのへんなかお」)とかは、機械にあやつられていないやろ」


そう言われて、かあかは「航大が幼い頃から読み親しんでいる長谷川集平さんの絵本は、私が学生の頃から集めていて、新刊はシューヘー・ガレージから購入して送って頂いたり、原画展の会場で購入したりするので、集平さんが一冊一冊手づくりしていると思っているようです」と書いているが、航大は思い違いで「てづくり」という言葉を使ったのではないだろう。

図書館の本は全部機械で作られている。集平の本は手づくりで機械にあやつられていない…これはわが絵本作家人生最高の褒め言葉だ。こんな表現をだれもしなかったし、理不尽な体験をするたびに、ぼくやクンや曽我がありったけの言葉をなんとか紡いで克服しようとしてきたことを、7歳の航大がバネのあるシンプルな言葉で看破してくれたのだ。

町は機械に作られた人たちであふれている。電話に出れば機械に作られた人が買え買えと言う。テレビをつければ機械に作られた人たちが馬鹿騒ぎしてる。議会では機械に作られた人たちが次に作る機械のことを相談している。絵本の世界もだいぶ前に機械に乗っ取られてしまった……。

ありがとう航大。元気が出たよ。ぼくらはどこまでも手づくりで行こうぜ! シェー! 15/05/23



●新作絵本の原画を解放出版社に送った。タイトルを『あなに』とつけた。キャッチボールの絵本だ。『ホームランを打ったことのない君に』(06年)を見たある人から「キャッチボールしてるところを見たい」と言われた。それからずっと描きたかったのだ。それでいて『はせがわくんきらいや』と同じ1976年の絵本『あな』(谷川俊太郎・文 和田誠・絵)へのオマージュでもあり、『およぐひと』『アイタイ』に連なる作品でもあり…たぶん手にするまで想像つかないでしょう。ぜひ楽しみに待っててください。

編集の綱美恵さんは解放出版社を定年前退職。6月から飲食店を経営。夜はお店のママさん、昼はフリー編集者という二足のワラジを履く。退職と聞いてドキリとしたが、大変そうだった児童書以外の仕事から解放されるし、ぼくとの仕事はどちらかがクタバルまで続けてくれると聞いてホッとした。やっと巡り合えたザ・編集者をぼくは失いたくないからね。『あなに』は綱さんがデザインもしてくれる。

4月に『はなす』が復刊され、岩瀬成子さんの『きみは知らないほうがいい』が産経児童出版文化賞大賞に決まった。次の絵本も動き出している。別の絵本の話もあるし、絵本評論もまとめられるかもしれない。
クンの治療・リハビリにつき合いながら仕事もできるようになってきた。連休中にクンは勇気を出してスタジオに入りチェロを弾いた。弾けなかったら大ダメージを受けるという不安が退院後の彼女をチェロから遠ざけていたのだ。大きな一歩を踏み出した。感謝の日々である。 ※写真は去年5月の長崎(左から集平、綱美恵、岩瀬成子、クン) 15/05/09



●1月15日にクン・チャンは退院した。ふたつの病院、4ヶ月半の入院だった。長かったので生活感覚にも失われているところがある。
家に帰って、クンに何ができて何ができないかが少しずつ見えてきた。できることが増えていくのはうれしく、できないことがあると悲しい。落ち込んだり泣くこともある。できないところはどうしたら克服できるか工夫する。ダメ夫だったぼくは心を入れ替えて彼女をサポートしている。でもまだ空回りすることが多い。反省反省。

病院でやっていた作業療法(OT)理学療法(PT)言語聴覚療法(ST)を日常でも意識して応用しながら、外来リハビリや鍼治療などに通う。病院でできなかったこともできる。しばらくはこういう生活が続くだろう。その先に左手の機能回復と、チェロ演奏〜シューヘー復活が待っている。

そんな中、クンの温泉療養を兼ねて伊王島に行った。橋ができてうちから車で数十分で行けるが、市内とは異質の島なのでずいぶん遠くに来た感じがする。俊寛が流された鬼界ヶ島が伊王島だという説もある。かつては炭鉱で栄え、今は温泉と灯台と教会が来訪者を待つ。
退院前まではこのページの14/10/07に載せた写真を見ては、また行けるだろうかとため息をついていた。こんなに早くまた一緒に灯台への道を歩くことができた。朝は小雨混じりだった空も昼過ぎには晴れて、海に青みがさす。神に感謝、祈っていてくださるみなさんに感謝。ザ・ショー・マスト・ゴー・オン! これからもよろしく。15/02/10

伊王島灯台の道に新しい案内板があって映画「あなたへ」(降旗康男:監督 2012年)ロケ地と書いてあった。高倉健の最後の主演映画だ。借りて、クンと観ながら何度も泣いた。先立たれた妻と主人公のシーンは他人事ではなかった。映画一本観る集中力がクンに戻ったのもうれしい。ぼくらにとって大事な映画になった。写真は伊王島灯台と高倉健。15/02/11



●今の病院に来て間もなく、クンが「窓から見えるあそこの山の中腹に、たぶん○○山のお寺だと思うんだけど、朝日の当たるほんの一瞬だけシャングリラみたいな姿が金色に輝くんだよ」と言う。どこ? と聞くとあの建物のあの部分の右横と指差す。木の緑しか見えない。「今は見えないけど、晴れた朝には見えるんだよ、ホントだよ」と言う。
「きょうも見えたよ」「スタッフの○○さんも○○さんもはっきり見えると言ったよ」と何度も言い、イラストまで描いて説明してくれるのだけれど、午後と夜に面会に行くぼくらにはわからない。

モーニング・ティーをカップに注ぎ、キンクスのレイ・デイヴィスが歌う「シャングリラ」を聴きながら、蜃気楼のようなシャングリラを眺めるのが好きだとクン。「元気なったらあそこまで登ろうよ」と言う。
数日前に「シャングリラを撮るからカメラを持ってきて」と言われた。つい最近まで細かい操作は疲れると嫌がってたから、うれしい要求だった。カメラをベッドサイドの小さな机の上に置いてきた。しばらく天気が悪くてシャングリラの写真はおあずけだった。

きょうは雪の予報がはずれて、雲間から時おり青空が見えた。面会に行くと「ほら、これ」とクンがカメラのモニターを見せてくれる。シャングリラが撮れたのだ。そこの部分を拡大する。「どれどれ……あ、クン、これ残念ながらシャングリラじゃないよ。アンテナの横棒が光ってるんだ。ほら、あのアンテナ、横棒よく見えないけれど、たぶん一定の角度で朝日が当たった時に光るんだろう」「えー! そうなの? がっかり」
……「金の窓」という話がある、夕方に遠くで金色に輝く窓を毎日見ていた少年が、あそこには金があると思って行ってみるが、それは普通の窓だった。そこから振り返った自分の家の窓が夕日を反射して金色に輝いていたという。クンのシャングリラは朝のほんの一瞬だけ金色に光る、山の手前のアンテナだった。
「がっかりだよ」とつまらなそうなクンに曽我がにっこり笑ってこう言った。「クンちゃん、あれはシャングリラなんだよ。普段はアンテナに化けてるけどね、朝ほんの一瞬だけクンちゃんに本当の姿を見せてくれるんだよ」「そうか!」「そうだよ!」

帰って、曽我にあの話よかったよと言ったら「絵本作家のところに長年勤めてるからね」と言われた。こいつの方が絵本作家らしいやと畏れ入ったことであった。そして想像した。あのシャングリラに照らされてクンの顔が金色に輝く朝を。 ※画像はチベットのシャングリラ 14/12/22



●11月29日=いい肉の日、去年のこの日、東中野ポレポレ坐で纐纈(はなぶさ)あや監督の「ある精肉店のはなし」が封切られた。大阪公開は12月7日。同日夜、ぼくらはひさびさのシューヘー大阪ライブ。映画のプロデューサーでクンとぼくの恩人でもある本橋成一さんと纐纈あやさんが上映イベント後の予定を変更してライブに来てくれた。写真はその時のもの(左から集平、本橋、あや、クン)

「シューヘーの音楽良くなったね。みんなに聴かせたいなあ」と本橋さんが東京ライブを提案してくださって、ことし9月にポレポレ坐企画で原画展・ライブなどをすることがその後決まった。その準備中にクンが倒れたのだった。

ぼくらはことしの1月に福岡で「ある精肉店…」を観ることができ、あやさんに再会。素晴らしい映画だった。上映後のトークにも教えられるところが多かった。※この下、14/01/29の記事にその時のことを書いています。
彼女は各地の上映会場に赴き、観客に直接語り続けている。複製芸術の概念をくつがえす、作り手本人が身をさらすライブ感覚。地道でねばり強い彼女の行動力が着実に観客を増やしてきた。そして大きな船が舵を切るようにゆっくりとていねいに、この映画は重い差別の歴史を方向転換させつつある。すごいことがぼくらの目の前で起きている。

クンが倒れた時、あやさんがすぐに送ってくれたメールに、病は恵みだという言葉を信じたいと書いてあった。それは福音書の言葉と同じだ。病気や障害を罰と考え、病人や障害者を罪人と見た古代の呪縛から人々を初めて解放したのはイエス・キリストだった。
「何のバチかぶりやろか」と嘆く同室の重症の老人をクンはあやさんの言葉で励ました。「病は恵みですよ」。その一言が老人を朗らかにし、クンに自覚をもたらした。

ぼくらに与えられた真の言葉。けれども、見ても見えず聞いても聞こえないわれわれが即座にわかることはわずかだ。気持ちの浮き沈みもある。クンだってぼくらだって時々ドーンと落ち込む。涙が止まらないこともある。ネットにはなるべく笑顔の報告をしてきたが、病人や障害者、その家族や隣人たちの一喜一憂をぼくらも共有している。病はバチではなく恵みだということをわかるための日々を感覚を研ぎ澄ませて送っている。

纐纈あや監督の「ある精肉店のはなし」1周年を祝おう。これからもこの映画が、ぼくらの一喜一憂をおおらかでわかりやすい光の中に招いてくれるだろう。14/11/29



●去年の秋に伊王島でスタッフ曽我祐未が撮ってくれたこの写真がぼくは好きだ。クンとぼくはこうして長い間二人で歩いてきた。途中から曽我がついてきてくれた。

実はこれまで親しい人にしか言わなかったことを書こうと思う。今回、くわしく調べて初めてわかったのはクンがモヤモヤ病だったということ。先天性の脳の血行障害である。
そう診断されて初めて、彼女の子どものころからの原因不明の不調や、前に発症した時に医師が病因がわからないとパニクったことが理解できる。あの時、病因のわからないまま手術を受けなくてよかった。
モヤモヤ病が特定疾患(難病)に指定され、有名タレントがモヤモヤ病を克服したことで広く知られるようになったのはその後のことだ。

それにしても彼女がなんとか健康を維持し、40代半ばに脳梗塞を自然治癒力で克服し、それから14年、食生活の改善、太極拳、鍼治療などで心身をチューニングしながら、まわりを照らすほど朗らかに生きてきたのは奇跡に近い。今回倒れたのも不摂生のせいではなかった。血圧は正常。内蔵に悪いところはなかった。要するにモヤモヤ病によるものだった。医者が驚くほど症状が軽いことや回復の早いのも彼女の日ごろの努力の賜物だと思う。クンのまわりには常に笑いがある。

手術と聞いて驚かれた方もあるかと思うが、クンの場合、虚血型モヤモヤ病なので、血行再建術(血管のバイパス手術)による再発予防と体質改善が期待される。まだ決め手のない出血型モヤモヤ病でなくてよかった。身体にメスを入れるのはぼくらの主義に合わないが、主治医のていねいでわかりやすい説明を聞き、この病気についてよく調べてみて、よりよく生きるために必要な手術だとポジティブに考えている。

ぼくらは東洋医学が根本治療、西洋医学は対処療法と考えてきたが、今回の体験でその価値観が逆転した。東洋の知恵でなんとか対処してきたが、今回ばかりは脳神経外科で根本治療するつもりなのだ。

そんなわけで、今週末にクンは二度目の一泊帰宅をし、連休明けの14日(火)に手術を受けます。その日の朝に浦上教会でクンのためにミサをあげてもらいます。祈りとともにこのヤマを越えます。みなさんもどうか、それぞれの方法で手術の成功とクンの回復を祈ってください。14/10/07

付記:詳細な造影撮影でわかったことがあります。驚くべきは前に梗塞を起こした左脳の後側の血管が本来の役割を超えて脳を覆うように前の方まで伸びていました。「自然バイパスされている」と医師に説明を受けました。自力でリカバーしているのです。それで、左脳は手術せずに様子を見ましょうということでした。
なんというクンの生命力! 14/10/08

【速報】長谷川くみ子=クン・チャンの14日の手術は中止になりました。手術を不安視する家族(医師)もいる。緊急を要する手術ではないからベストの方法を探しましょうと主治医が判断。急展開にぼくも動揺しています。まずはリハビリに集中。引き続きお祈りください。14/10/12




●1988年4月6日に上野公園奏楽堂で初演された歌曲「再会」の録音を発見。ながらく忘れていたが、これは傑作だ。ぼくが書いた6つの詩を、天才作曲家・島田広が歌曲にした。

ジョイント・コンサート「ヒポポタマス その1」と銘打って、その名の通り立派な体格のテノール・秋島光一とアルト・順井宏子という東京混声合唱団の二人と演奏家たちが参加した。

ここに紹介するのは全体で30分ある「再会」の最後の5分ほどの部分で、ぼくはなかなか絵本化が実現しなかった「再会」(『アイタイ』の原形)のテキストをそのまま使ったのだった。画像は作曲家に渡したテキストで、これを見てもらえば絵本の前半と後半が同時進行だということがわかるだろう。曲も見事にそれを表現している。聴いてみてください。

mp3が再生できるプラグインが必要です

歌曲「再会」より(曲:島田広 詩:長谷川集平|アルト:順井宏子 テノール:秋島光一 ピアノ:島田広 フルート:渥美敏行)MP3 4.9MB

この曲は同年9月に吉祥寺MANDA-LA II で再演。オリジナルの現代音楽をライブハウスに持ち込んだのも、当時としては快挙だった。14/06/02



●『アイタイ』の原画を描き始める前に、これはぼくの「地獄の季節」(アルチュール・ランボー生前唯一の詩集)だと直感して、そう言ってきたのだけど、イマイチ裏づけがなかった。それがようやく説明できるようになったので、ご報告。

気づきにくいかもしれないが、この絵本の男の子と女の子はすでに再会を果たしている。もともとのタイトルは「再会」だったのだ。しかし、見つめあっているのに、おたがいに相手を認識できない。男の子は女の子が不気味な雲にしか見えない。ついに地球最後の日が来たかと思うほどびくびくしている。女の子は女の子で、男の子が小さくて無害な虫にしか見えない。ふたりは会っているのに会えてないのだ……と「シューヘー通信」でも語ったし、講演会でもそう話すことにした。種明かししてもまた見たくなる手品みたいな絵本であってくれよと思いつつ。ただ、これだけではなぜ「地獄の季節」かという説明にはならない。

先日、長崎新聞の取材を受けていて、話しながら「あ! これだ」と心の中で叫んでいた。ぼくらはよく死んだらあの世でまた会えると思う、それは天国のことであって、地獄で会おうなんて冗談めかして言うけれど、地獄ではだれにも会えない、限りなく孤独なんだという話を思い出したのだ。
「どこに書いてあったんだっけ?」と、この分野にくわしい(!)曽我に訪ねると「『エクソシストは語る』(ガブリエル・アモース著 エンデルレ書店 07年)だよ」と教えてくれた。「ああ、あれか、持ってきてよ」と頼んだ。
曽我が付箋をつけてくれたページを見ると、教会公認のエクソシストであるカンディード神父が悪魔が憑いたらしい十三歳の女の子に、この世で憎しみ合う敵同士が地獄に堕ちる、永遠に一緒にいなきゃいけないふたりの関係はどうなっているだろうと、いわゆる引っかけ質問をする。少女がこう答える。

「あんたって、どうしようもないバカね! 地獄ではね、だれでもが自分の殻ん中にひきこもって、それぞれの後悔で別々に引き裂かれて暮らしてんのよ。だれとも関係なんかあるもんですか。これ以上ないほど寂しくって、たったの独りぼっちで犯した悪を悲観して嘆いているんだわ。墓地みたいに」

年齢にそぐわない、下品な口調と驚くべき内容を聞いて、これは少女ではなく悪魔が語っているのだと神父は確信する。見てきた者にしか語れない地獄。「これ以上ないほど寂しくって、たったの独りぼっちで」いるふたりをぼくは絵本に描いてしまっていた。けれども彼らは「犯した悪を悲観して嘆いて」はいない。自分が地獄にいることを知らないまま、ぼんやりとしたブルー(表紙の顔を見よ!)に囚われている。君やぼくに似てやしないか? 14/05/28



●卒業シーズン。学生たちの記念写真を見るとうれしいようなさびしいような心持ちになる。けどね、お前ら、Vサインしすぎだろう。あれは人生のクライマックスに何回かやるぐらいでいいんじゃないか。勝った勝ったと自慢しているみたいに見えて、オレはあまり好きになれない。

1972年にカメラのCMで井上順がアドリブでVサインをして「ピース」と言ったのがきっかけで流行ったという。ああ、あれねと覚えているが、ぼくが学生時代を送った60〜70年代の写真でVサインしてる人はいない。80〜90年代の写真を見ても、すくなくともぼくのまわりにVサインはない。21世紀になって急激に若者の間に増殖したのではないだろうか。勝利者でもないのにカメラの前でVサインのポーズをするのは日本人だけで、今ではアジアの若者たちに伝染しているという。ちなみに「はい、チーズ」と言って笑顔を作るのは63年の雪印乳業のCMからだそうで、テレビの影響力がいかに大きいかを思い知らされる。

Vサインの歴史を調べるとかなり古いことがわかるが、一気に広まったのは英国首相チャーチルがVサインで国民に勝利をアピールした第二次世界大戦中だ。キンクスのアルバム「アーサー、もしくは大英帝国の衰退ならびに滅亡」(69年)の中の「ミスター・チャーチル・セッズ」はチャーチルの勝利を確信した言葉がビートに乗せて歌われる。これをラップの始まりと見る向きもある。
作り話らしいのだが、連合国が勝利した時にチャーチルがVサインの2本の指は広島と長崎に落とされた原爆を表わす、それによって平和がもたらされたから、これはピース・サインだと笑ったという。作り話だとしても聞き捨てならない。知ってしまうとVサインをしたくなくなる。

その次の流行はウッドストック世代のピース・サインか。ベトナム戦争の時代。鳩の足跡とも言われたピース・マークとセットでよく流行った。あれは実際に平和運動を闘っている人のもので、中高生のぼくらが真似するのはおこがましいという感覚があった。だからぼくらはしなかった。映画やニュース映像で眺めるだけだった。井上順がTVCMでVサインをしたのはその直後だ。

若い人たちはこういうことを知らないままVサインをする。どうせテレビやマンガの影響だろう。昔、ある演出家が日本の女優に「幸せそうな顔をして」と言うと、みんな威張った顔をする、優越感が幸せだと思い違いしているのではないかと書いていた。そのことを思い出した。
知らなくても、ピース・マークと思っていても、あれは勝利者のサインだ。見せつけられて不快に思う人もいるだろう。ぼくは不快だ。王貞治の父親が息子がホームランを打ってガッツポーズするのを叱ったという。
日本は近隣国を踏みにじって、パクス・ロマーナ(ローマの平和)ならぬ日本の平和をでっち上げてきた。国内でも都市部が周辺部をコケにして、いい目をしてきた。その象徴として3.11がある。福島は東京の犠牲になった。今、自分は能天気にVサインしてる場合かと、胸に手を当てて考えてみてほしい。※卒業式の写真はネットの拾い物。ぼくの生徒ではありません。14/03/18



●絵本『アイタイ』が3月11日奥付で出せることになった。いったん4月に決まっていた出版を早めるのはめずらしいことだと思う。ずっとそれを望んでいたので、願いがかなってよかった。やはりこの絵本にはこの日付が刻まれるべきだ。

この絵本のもとになったのは雑誌「ショートショートランド」(講談社 84年 9+10月号)に載せた見開きの作品「再会」だ。それを絵本にしようと思って32ページのサムネイルを作ったのが88年。30年越しの絵本化ということになる。チェルノブイリ原発事故の影響で描いたというふうに記憶がすり替わっていて、チラシや帯にもそう書いたが、事故は86年で、その前にぼくはこんなものを描いていたわけだ。その後、チェルノブイリ、そして反原発運動の時代が来て、絵本化を思いついたという順番だったようだ。なにしろ昔のことで記憶が曖昧になっている。「ショートショートランド」の担当編集者はだいぶ前に亡くなった。彼にこの絵本を見てもらいたかった。

去年、前から気になっていた伊仏合作のオムニバス映画「ボッカチオ '70」(62年)をやっと観ることができた。びっくりしたのはフェリーニ監督篇で、巨大な女と等身大の男が向かい合うシーンだった。フェリーニの大女趣味炸裂というところだが、この二人の関係は『アイタイ』によく似ていた。人と人の間の絶望的な距離と会えなさ加減。フェリーニもまた直感の人だった。……出版前のネタバレは極力避けたいので、この話はここまで。
とにかく、この作品が出版に値すると判断されるまでに30年かかったということを書いておこう。ちょっと、呑んだくれたい気分である。乾杯! 14/02/17



●シューヘー・ガレージは毎年、ホークス貯金をしている。福岡ソフトバンク・ホークスが公式戦で勝つたびにひとり100円ずつ貯金箱に入れる。連勝は200円、5連勝すれば500円入れる。クライマックス・シリーズや日本シリーズに出れば1勝の金額が増える。あんまり勝つとホークス貯金貧乏になってしまって食費を削ったりしても、それはうれしい貧乏だ。
強い年は五島旅行するぐらい貯金できるが、去年やことしはイマイチ。今回は九州で初上映される「ある精肉店のはなし」を観て博多に1泊しようということになった。
初日と二日目に纐纈(はなぶさ)あや監督と撮影の大久保千津奈さんの舞台挨拶があるので、それに合わせて。あやさんとプロデューサーの本橋成一さんは大阪での上映初日イベントの後に、たまたま同じ日、同じ地でやったシューヘー・ライブに駆けつけてくれた。本橋さんとは二十何年ぶりの再会だった。その時にあやさんが子どものころからぼくの絵本を読んでいたことを知った。ぼくはまだ彼女の映画を観ていなかった。長崎では本橋さんの映画も纐纈さんの映画もなかなか観られない。この機会に映画を観て応援しようと思ったのだ。

ぼくは京都の帰り、クンと曽我はその日の午前中に長崎から軽自動車に乗って、JR博多駅で待ち合わせ、まずは元祖長浜屋に直行。うまいラーメンを食べて、ホテルに荷物を置き、歩いてKBCシネマに行った。映画館の前は長蛇の列だった。こんな光景を見るのはいつぶりだろう。
右の列は入場券を持った人、左の列は入場券のない人と指示されて左の最後尾に並ぶ。前売りのない上映会だ。前方で「ここからは補助席になります」という声。しようがねえかとそのまま進むと何人か前で「ここから後は立見です。それを了承していただける方だけ入場券をお買い求めください」と言われる。「何時に終わりますか?」とだれかが聞く。「映画が約2時間。トークが約40分です」……実はぼくは前日、卒制審査と絵本ゼミの作品展会場でのライブとその後の飲み会でかなりへたっていたので「無理だ、あしたにしよう」とうながして、列から外れた。
クンがあやさんの携帯にメールを入れる。あとで電話が通じて、あやさんがうろたえたみたいな声で悪がっていたそうだ。KBCシネマでこんなにお客さんが入るのはあまり記憶にないと映画館の人に言われたと後日書いてあった。快挙である。写真は翌日の上映前にロビーで撮ったもの。左からクン、纐纈あやさん、ぼく。

映画は素晴らしかった。ひさしぶりに真っ当なものを見せてもらったと思った。すごい才能が出てきたもんだ。同じ監督と撮影による第1作「祝(ほうり)の島」も観なければと、長崎に帰ってからDVDを注文した。「ある精肉店のはなし」の上映パンフレットによると「祝(ほうり)」は「屠(ほふ)り」から来たそうで、そうしてみると原発建設反対を貫く島のドキュメンタリーの次にこの映画という流れは必然だったとわかる。
映画評はいずれくわしく書きたい。翌日、ツイッターにぼくはこんなふうに書いた。

昨夜、上映後のトークで西南学院大学の田村元彦さんが「『ある精肉店のはなし』こそ3.11でわれわれが知ったことを最もよく描いた映画ではないか」と語った。ぼくは思わず拍手してしまった。撮影の大久保さんが最後の屠畜の収録後、大泣きした話をしながら泣いた。ぼくも泣けてきちゃったよ。

3.11でわれわれが知ったこと、それはひとつやふたつではないが、ぼくがもっとも痛感したのは、都会は田舎を、町は村を、金持ちは貧乏人を、日本は隣国を、東京は東北を踏み台にしてきたという、日常にまぎれて見えなくなってしまっている暴力構造だ。人間の社会が始まってからずっとそうだけれども、自分でしたくない事を自分より立場の弱い人にさせていく。もっとも忌み嫌われることがもっとも下層の生業になる。だから精肉業は長崎では部落よりも差別されてきたカトリックの人たちが請負うのだ。人の嫌がることを代行しているのに尊敬されるどころか見下され踏みにじられ、排除される。こんなことばかりしてきたから、そのパロディのようにイジメもなくならないのだ。

3.11のあと、ぼくは募金集めのためにグループ展で絵を売った。その会場が本橋さんのポレポレ東中野だった。いい絵が描けたので手離したくなくなり、未練がましく画家仲間に相談したら、思い切り高くしてみたらどうですかと言われた。で、そうした。それをからかう人がいた。「こんな小さな絵でこの値段?」と話してたら、そばにいた人が「集平にはいっぱい信奉者がいるからね」と言ったとブログで茶化していた。知り合いだったので、ぼくは抗議した。まず、絵の価値は絵の大きさと関係ないという話をし、そういうふうに人を軽視して面白がる先に原発があるんだよと叱った。ブログは修整された。間もなく絵が売れた。買ってくれたのはぼくとの関わりの中で、あることを克服した人だった。無理してでも手に入れて自分の家にその聖母子像を飾る理由がその人にはあった。こうなる以外ないという展開で、ぼくは深い喜びを感じた。

ぼくらの日々のあり方と原発は決して無関係ではない。ぼくらもまた原子力ムラの住人なんだ。ぼくら自身が変わらなきゃムラは変えられない。もちろん楽には変われない。イマジンしただけで変わるものではない。必ず痛みと犠牲をともなう。その、しんどいところをぼくらはこれまで他人に押しつけていた。本当はその人たちは他人ではなく隣人なのに。そのことを言葉を荒げず、喜怒哀楽すべて飲み込んだ上で、事実を大きくも小さくもせず、真っすぐに語るのが「ある精肉店のはなし」だった。ぜひ観てください。14/01/29



●そろそろ新作絵本『アイタイ』の原画を描き始めます。前回書いた村八分のヴォーカルだったチャー坊(柴田和志)の遺稿集で、94年にカトリック北白川教会で彼の葬儀ミサがあったことを知り、ぼくの通う京都造形芸大の近くなので、午後からの授業の前に寄ってみた。
聖堂で祈り、隣の部屋でこの教会についてのパネルを見ていたら、賛美歌の練習をしていた女性が出てきたので、これこれこんな人の葬儀ミサがここであったことを知りませんかと尋ねたら、私にはわかりませんと司祭館に案内してくれた。司祭館のお手伝いの女性にそれなら事務室に行ってくれと言われた。事務室では金庫まで開けて洗礼者名簿を調べてくれたが、チャー坊の名前はなかった。葬儀の記録も残っていなかった。ここでは信者ではない人の葬儀ミサは絶対しないから信者ということは間違いないですと事務の男性が言う。それ以上の話は聞けそうになかったのでお礼を言って帰った。記憶している人がなく、記録も残っていない、チャー坊らしいなと思った。彼の信仰を確かめるのはぼくにとって重要なことなので、また調べてみようと思う。

『チャー坊遺稿集』には彼が晩年住んでいた京大近くのアパートの部屋の写真が載っている。壁にアルチュール・ランボーの写真が額装されて飾られている。詩人が17歳か18歳の時の、よく知られたポートレイトだ。ランボーを敬愛していたチャー坊の書く詩は、ランボーに似てひどく屈折しているが、根底には深い信仰があるようにぼくには思える。
ぼくは若いころに粟津則雄・訳の『地獄の季節』を持っていた。でも、よくわからなかった。本はいつの間にかなくなっている。ランボーと同じカトリックという背景を持った今のぼくにどう読めるだろうと同じ訳と小林秀雄・訳、それから英語訳を読み返している。前と違って、他人事じゃないと思う。ランボーがオジー・オズボーンやセックス・ピストルズやラモーンズやスレイヤーの大先輩に見えてきた。そういえば、パティ・スミスが緒言を書いた版もある。読んでみよう。

しかしまたなんで今ごろ『地獄の季節』なんだろうと考えて、はたと気づいたのは、『アイタイ』に直結しているということだ。前作『およぐひと』は萩原朔太郎の詩「およぐひと」がぼくの背中を押してくれて描けた。『およぐひと』の次にぼくはこの世の終わり、地獄の始まりを描こうとしている。それでいて子ども向けの絵本、それでいてラブ・レターという、こんなこと言ってもだれにもイメージできないだろうし、ぼくにもよくわからないのだが、ランボーの「地獄の季節」と「イルミナシオン」が後押ししてくれるという直感がある。それで何度も読み返している。こうして大事な仕事の予想外の準備をさせてもらうことがびたびある。やっぱりオレは受信機だと思う。

上の画像は『アイタイ』のテスト・ショット。絵柄は仮。わかるかな。線を錆びさせるのだ。これに色をつけるつもりなんだが、さて、どうなりますやら。楽しみにしていてくださるとありがたい。来年の春までには出しましょうと解放出版社の綱さんと話しています。13/11/17



●8月14日は京都造形芸大の卒業生ふたりとその友人を連れて長崎独特のお盆の墓参りを見て歩いた。それぞれの墓所で家族が花火をして故人の霊をなぐさめている。時おり矢火矢がシューッ、ポンと上がり、爆竹がタンタタタタタッとはぜる。家に帰ってネットで山口冨士夫の訃報を見た。

翌15日の朝は浦上天主堂で落ち合って聖母被昇天ミサにあずかり、その後、これも長崎独特のカトリック墓地を案内した。個々の墓に添えられた死者の記録には洗礼名と姓名と1945年8月9日没という字が多く見られる。原爆の犠牲者だ。
その日の夜は精霊流しの爆竹の嵐の中をみんなで歩いた。日本一やかましくてさびしい、死者を送る人ごみの中でぼくは山口冨士夫という死者のことを考えていた。ネットには反原発で殺されたんじゃないかという憶測や、タクシー乗り場でトラブルを仲裁しようとして倒されて意識不明のまま入院中だったという情報が出回っていた。

73年にエレック・レコードから2枚組のライブ盤を出したきり解散してしまった村八分という伝説のバンドはぼくには遠い存在だった。当時、高校3年生のぼくはブルーグラス・バンドでマンドリンを弾いていて、日本語の歌は高田渡、加川良、三上寛、ナターシャセブンなど、邦楽・洋楽の流行りはラジオで聴いても、ロックの間口と奥行きには縁遠かった。村八分はレコード屋の店頭で見て、少し気になったのを覚えているが、ラジオでもほとんどかからないようなバンドの2枚組を買う余裕も勇気もなかった。それから今まで、村八分を聴かずに過ごした。ぼくがロックの尻尾をやっと掴んだのは80年代になってからだった。

村八分のギタリスト・山口冨士夫の訃報はぼくに忘れていたいろいろなことを思い出させた。姫路のライブハウスにいたヒロシ(楢崎裕史)さんが、村八分のボーカルのチャー坊が死ぬまで連絡を取り合っていたこと、裸のラリーズで冨士夫との接点もあること、ここ10年ほど通ううちに見えてきた京都の裏カルチャーに村八分が大きな影を落としていること、それでいながらタブー視されているところもあること、京大西部講堂のオバケのような存在感など、様々のパーツがサーッと一気に集まって1枚の絵になったような気がした。渡さんと冨士夫が尊敬し合っていた話も聞いた。

それで、本当に申し訳ないほど遅ればせながらCD「村八分 ライブ+1」(画像)を買って聴いた。しまった! と思った。集平一生の不覚。もっと早く聴いていれば日本語ロック、いやそれだけじゃない、この国の文化全体が違って見えていただろう。これだけ非公式の音源が出回っている日本のバンドは他にない。外国のバンドの海賊盤はいっぱいあるのに、こっちではないなと思っていたが、村八分は例外だった。その、けっこう値の張るCDやインタビュー本、遺稿集などを少しずつ手に入れながら、砂漠が水を吸うような時を過ごしている。
ドラッグは別として、シューヘーの歌は村八分の延長線上にあると思えるのがうれしい。彼らのことを知らないまま違う道を通ってきたのに。「オレたち外してないよな?」「そう思うよ」とクンも言うからたぶんそう。13/09/20



●『およぐひと』の最初のタイトルは「泳ぐ人と逃げる人」だった。そうしたのは、たしか「泳ぐ人」という映画があったと記憶していたからで、逃げる人をつけ加えることで特徴を持たせようとしたのだ。

いっそ全部ひらがなにしようと書き直した第3稿で「およぐひと」にした。ひらがなだけで「およぐひととにげるひと」はくどい。どうしようかと考えながらネットで萩原朔太郎の「およぐひと」という短い詩を見つけた。不勉強なぼくは初めて読んだ。これから描こうとしている絵本と共通のイメージがあることに驚いて、むしろ同じ題がいいと思った。加えて、68年のアメリカ映画「泳ぐひと」(画像)は原題「The Swimmer」の直訳ではあるが、朔太郎の詩にヒントを得たのだろうと書いてあるのを見て、ピンと来るものがあった。詩を載せておこう。

 およぐひと 萩原朔太郎

 およぐひとのからだはななめにのびる、
 二本の手はながくそろへてひきのばされる、
 およぐひとの心臓(こころ)はくらげのやうにすきとほる、
 およぐひとの瞳(め)はつりがねのひびきをききつつ、
 およぐひとのたましひは水のうへの月をみる。


絵本を描いているうちにタイトルがだんだん絵本に馴染んでいった。この題以外あり得ないと思った。タイトル・ロゴを描いてほしいとデザイナーにリクエストされて、すんなり引き受けた。この字だけペインターという、『ホームランを打ったことのない君に』を描いたのと同じソフトを使ってコンピュータで描いた。

そして、きのうレンタル・ショップで取り寄せていた映画「泳ぐひと」のDVDをやっと観た。この映画に朔太郎の詩のタイトルを流用した60年代の映画人のエスプリを感じた。
今のぼくよりちょっと若いバート・ランカスターが初めから終わりまで水泳パンツ一丁の裸で演じる主人公は、家に帰りたがっている。家までの道を素足で歩き、途中にある邸宅の庭のプールで必ず泳ぐ。映画のあちこちに、身に覚えのある殺伐と孤立があった。孤独というより孤立。詩と映画と絵本の中を泳ぐのは同じ人だったかもしれない。

映画を観終わったクンとぼくは顔を見合わせて「おもしろ〜い、よかった〜」と感嘆の声を上げた。「人間の罪を描いた映画だね。彼は煉獄で苦しむ魂だよ」とクンが言う。その通りだと思う。よくわからないというレビューをいくつか見たが、それはその人が自分の罪と向かい合ったことがないからだろう。
ぼくはなぜかイギリスの連続TVドラマ「プリズナーNo.6」(67年)と似ていると思った。時代の気分もある。その時代を生きる人の内面の闇を暗く撮らずに、彩度の高い白日の下に曝す。泣きよりも笑いで「孤立」を描く。69年に日本で放映された「プリズナーNo.6」にぼくは中学生でノックアウトされた。あの時のダメージが今も残っている。それが絵本『およぐひと』の底にあると、こんな回り道をして気づいたのだった。13/05/13



●シューヘー・ガレージで先行発売していた『およぐひと』がきょうから書店に並ぶそうだ。実は奥付が4月20日に決まった時に、19日に変えてもらおうかと考えてから、やはりここはあまり意味のない日付で行こうと決めたのだが、結果的にぼくの誕生日に発売されることになったのもまた、偶然ではないような気がしてくる。

すでにいろいろな人から『およぐひと』の感想が届いている。ありがたい。中にはややこしいのや毒づく人もいるが、それもまた作品の起こした波紋だと思って受け入れることにした。福島のををうちやすをは、先週届いたけれども怖くて絵本を開くことができなかったとメールをくれた。今週になって読んで、心のこもったメールをくれた。じゃっかんの混乱は、やはり動揺が大きいということなのだろう。こんなことが書いてあった。

ちょうど日曜日の朝日新聞に「泥の河」が特集されていたものですから、浦山監督の助言である「哀切であることは誰でも撮れる、それが痛切であるかどうかだよ」…小栗監督のいう「あるポジションが自分にあって、そこから見て可哀想だというのが哀切だが、痛切は、自分が相手に置き換えられ、そっちでもあり得た、と思う場所から生まれてくる感情」がスゥーーーッと『およぐひと』に重なった思いです。

よくぞ言ってくれたというのが半分、違うぞと言いたいのが半分。小栗さんの解釈は違うと思う。小栗さんは他人事は哀切、他人事じゃないのが痛切と言いたいのかもしれない。浦山は小栗さんの「泥の河」は痛切を撮れていないと言いたかっただけだろう。ぼくは浦山にこういう言い回しで叱られたことが多々あり、その度に「しまった」と思って態度を改めてきた。小栗さんは浦山が指した先ではなく指を見てしまっている。

浦山桐郎は痛切を主に音楽から学んだとぼくは思う。レコードを聴く彼のすさまじい入魂を知る人は少なくない。最近、人が感想を述べる言葉は「おもしろい」「かわいい」「深い」「わかる」「わからない」「めっちゃ○○」「○○すぎる」でだいたい間に合ってしまうが、そんなチャチな言葉では説明のつかない、それを知る前と後ですべてが違う、それがなければもう自分というものが成立しないような音楽や映画や本に、たぶん最近の人は出会ったことがないのだろう。
若いカザルスはバッハのマタイ受難曲を聴いて何日も寝込んでしまったという。そのカザルスが中年になってやっと全曲録音したバッハの無伴奏チェロ組曲は世界中の人生を変えてきた。世界そのものを変えてきた。そんな演奏でもピッチが甘い、解釈が古い、録音が悪いとせせら笑う人がいる。豚に真珠とはこういうことだ。

テレビじゃダメだと浦山は言った。映画でなければ、そして観客は日常から切り離された映画館の暗闇に身を置くべきだ。映画館でなくても、とにかくその人がその人の暗闇の中にいられるところで。
腹がよじれるぐらいの喜怒哀楽を味わうこともなく、感情の揺れ幅の狭いところに漠然といて、好き嫌いだけでモノを言い、食欲性欲を憚らず、自尊心を満足させるものだけを求める者のなんと多いことか。そんなやつの「感性」なんてたかが知れている。そんなところから偉大な芸術は生まれない。実際、ぼくらの時代は長い間、偉大な芸術を生んでいない。

ををうちにはこう言おう。ぼくは被災者に自分を置き換えることはできないよ。暗闇のところでつながっているだけだ、と。13/04/19 ※写真はきのうの稲佐山。クンの腰は99パーセント回復しました。



●近ごろ……3.11以降と言ってもいい、スポーツ選手が「夢と感動を与える」とよく言うようになった。高校球児が「夢と感動を与えるので、応援よろしくお願いします」と胸を張る。
同じことを絵本作家やミュージシャンが言ったら笑われるだろう。「与える」なんて、偉そうに。自分の表現が夢や感動を与えるなんて考えたこともないし、それがゴールでもない。いつまでも夢見てないで目を覚ませよと言わなきゃいけないこともあるし、その感動じゃなくてこの感動だろと問いかける必要もあるのだ。
しかし、表現者もスポーツ選手を真似て夢と感動をと言い出しそうなご時世ではある。

昔のスポーツ映像はたいてい古臭く見える。ああ、こんなことで大騒ぎしていたんだというような。一冊の本、ひとつの歌がいつまでも新鮮で、人生全体に深く染み渡るようなことと質的に違う。
なでしこジャパンの試合を観て歓声を上げた仮設住宅の人たちは番組が終わるとテレビを消して冷たい寝床に帰っていく。目覚めたらきびしい朝が待っているのだ。ぼくらは戦場で虫けら扱いされる雑兵にすぎないのに、時代劇の秀吉や家康に感情移入する。それとあまり変わらない。

3.11以降目立つもうひとつの傾向は、ぼくらが賢くなれば世の中が変わるというもっともらしいスローガンだ。ジョン・レノンの「イマジン」もそう歌ってる。自分たちは正しくてあいつらは間違っているのだから、ひとつになればいずれぼくらが勝つという。いつまでそんな幻想に浸ってるんだ。ぼくは生まれてすぐにヒ素ミルクを飲まされた。両親がもっと聡明だったら避けられただろうか。そして、あんなことがあったのに、あんなことやこんなことがまだ起きているのだ。

時代に翻弄され、ハズレくじばっかり引いている人たちをぼくは描き、書き、歌ってきたと思う。こないだエフエム長崎で『およぐひと』のことを聞かれて、咄嗟に「ぼくらの日常がああいうことが起きたときにどう動揺するのか、心はどういうふうに動くのかというところをきちっと記録しておきたい」と話した。それができたかどうかはともかく、話しながら自分の役割に気づいた。ぼくは夢や感動を与えようとは思っていない。ぼくらがどうやって生きて死ぬのかを描いておきたいだけだ。だがそれは、簡単なことではない。13/03/06



●絵本作家として3.11をどう描いたらいいのか、わからないまま時が過ぎた。それが、去年の秋に不意に浮かんだ「これだ!」というアイデア。テキストを書いても出版の当てがなく、複数の編集者に突き返され、なかなかトンネルから抜けられない状態だったが、正月明けに急展開があり、解放出版社から出ることになりました。うれしい! 今、原画を描いているところ。

最初のテキストから次の平仮名だけのテキストに書き直した段階でピントが合ってきて、タイトルを萩原朔太郎の詩と同じ「およぐひと」に決め、ダミーを描く段階でさらにピントが合う。
出版の当てのないまま描いたダミーだったが、描き終えた次の瞬間に解放出版社の編集者・綱(つな)美恵さんからメールが届く。ぼくが年賀状にダメモトで「絵本を出しませんか」と書いた、それはどんな絵本ですか? と。実はこんな絵本なんですがと持ちかけると、綱さんはすぐにでもそのダミーとテキストを見たいと言ってくれ、送ると、すごくいいから次の会議にかけると即答が来た。間もなく会議でゴーサインが出た。それでさっそく原画に取りかかった。

画像は『およぐひと』の扉の次の第1画面(2〜3ページ)の絵。この絵から始めるのはやはり怖かった。起床前から腹痛になってしまって、スタートが1日遅れた。こんな内容だからこそ、絵が深刻になりすぎないように、あくまでポップにしたい。そのひとは ながれにさからって およいでいた。と左ページの上に字が入る。ここから物語が動いていく。どう動いていくかは今は言えないが、どうか楽しみに待っていてください。きのう10画面描けたところ。あと3分の1強。4月奥付の予定です。13/02/02



●大村芸術文化塾というのを90年代にやった。そこに毎回入院先から抜け出してぼくの話を聞きに来ていた老人の名前に聞き覚えがあったので妻に言うと、たぶんその人だと言う。
彼は片淵中学の美術教師だった。途中で新設された特殊学級の担任もした。敗戦後、中国から帰ってきて教師の資格を得たという。黙々と仏像を彫っていた。向こうではかなり危険な任務についていたらしいが、戦争体験を語らなかった。時々、仏像についておだやかにわかりやすく説明してくれた。好きな先生はあの人だけだったと語る妻は美大に入る決心をその時にした。そして東京の美大でぼくと知り合う。彼がいなければぼくらは出会えなかった。

芸術文化塾の打ち上げにぼくは妻を連れて行った。そして先生と生徒はひさしぶりに再会した。ぼくらは彼に感謝の言葉を述べた。彼は訥々と人生を語った。しかし中国で見たことについては語らなかった。心の中で仏像を彫り続けているようだった。
そのころ、今もそうだが、教師による生徒への暴力が問題になっていた。その話題になると彼は「最近の先生は殴り方を知らないからですよ」と言った。終始にこやかな彼の言葉には凄みがあった。「傷つけない殴り方があるんです」。それがすべての答えのような気がぼくはした。傷つけない殴り方、心に届く殴り方……殴らなくても人を傷つけてばかりいる学校や社会、そして家庭。

ぼくの『はせがわくんきらいや』を英語に翻訳してアメリカで出そうと試みた人がふたりいて、ふたりとも長谷川君を「ぼく」が殴るシーンで出版社に門前払いをくらった。アメリカでは暴力を子どもに見せない配慮があるようだが、でもあの国の現実はどうだろう。
ぼくが見てほしいのは、殴られた長谷川君がそれからも「ぼく」を避けようとしていないことだ。暴力は「ぼく」ではなく、「大事にしてあげてね」と言う先生や「仲良くしてやってね」と言う母親の背景に潜んでいる。彼らは森永ヒ素ミルク事件という大きな暴力に呑み込まれてしまったまま、ちょっと気の利いたことを言うだけだ。「ぼく」だけが、わからへんわからへんとあがきながらそこから出ようとしている。その彼を長谷川君が敬遠するはずがない。『パイルドライバー』(画像)ではコテンパンにやられたブンくんはエッちゃんをいっそう好きになるのだ。

大村の老人は絵本を描いていた。戦前の長崎の子どもの遊びを絵と文で説明していた。もう失われた遊びもあり、今に続く遊びもあった。描かれた子どもたちはみんな楽しそうだった。彼が一番描きたかったものだと思う。彼は亡くなったが、あの絵本の原画と仏像はまだ残っているはずだ。そのようにぼくの絵本も残ることを祈ろう。13/01/11



●秋を感じると急にクリエイティブになって、こないだから絵本の下書きふたつ書けてしまった。どちらも震災や原発事故に端を発した物語だが、ドキュメントではない。モニュメントだ。ひとつは編集者に送って断られた。今はその人の心変わりを待っている。もうひとつ(画像)は出版の当てのないままだ。どこかで出しませんか。

93年に岡山集平塾生のひとりが設立した温羅(うら)書房は、既存の絵本出版に希望を持てなかったぼくの絶版中の『はせがわくんきらいや』復刊で始まった。メジャーでは出せそうにない絵本を出そうという意気込みで始めた。岡山で印刷製本した。流通は地方出版には難関だった。苦戦した。それでもなんとか踏ん張った。
『とんぼとり』と『パイルドライバー』を書き下ろし、『たんぽぽのこと』を復刊したところで温羅書房は別の事業の失敗で(!)つぶれてしまった。4年しか保たなかった。編集者として育てた曽我は数ヶ月で職を失い、ぼくの絵本は書店から消え、印税収入がまたもや激減した。既存の出版社に逆らったバチのように仕事が来なくなった。いや、温羅書房以前からそうだった。

3度目の絶版の憂き目に遭った『はせがわくんきらいや』をもうどこも復刊しなかった。読みたいと言う人がいてもぼくの手持ちもわずかだった。古書店にぼくの本が出ることはめったにない。今もそうだが、自分の絵本がにぎやかな児童書コーナーにないのはつらい。
99年、絵葉書にすれば読んでもらえると思いついて『はせがわくん…』絵葉書セットを作った。朝日新聞に記事が載ったとたん、怒濤のように注文が押し寄せた。電話は鳴りっぱなし。毎日、起きるとFAX用紙が一反木綿のように床に垂れて延びていた。電話で話し込む人が多く、大半のFAXには『はせがわくん…』への思いがびっしり書かれていた。他の絶版絵本の絵葉書も欲しいというリクエストもあった。一日中、注文の受け付けと発送作業に追われ、食事を作るヒマもなかった。売り切れ確実で、あわてて大量増刷した。そんな状態がどれぐらい続いただろう。(詳細はここを)
その時に、ぼくは出版と読者のズレを痛感したのだ。読者に求められている喜びを本当にひさしぶりに感じた。それからインターネットや電子本の可能性を試して、こりゃアカン、やっぱ絵本はアナログじゃなきゃと気づいた。03年に『はせがわくん…』が復刊ドットコムで復刊されるまで7〜8年そんなことをしていた。

ぼくはインデペンデント出版のささやかな闘いをして、あっさり負けた。いい勉強になった。そして、今は自分の絵本をどこかで出してくれないかと待っている。印税生活者とはもう言えなくなっている。そこのところはなさけないけど、しようがない、絵本の世界の間口を広くし奥行きを深くするのがぼくの仕事だ。自分のためにやってるのではない。どうか、ぼくの新作が出るように、旧作が戻るように祈っていてください。12/09/24



●大飯原発再稼働を現地で阻止しようとする人たちが、警察隊の鼻先で「再稼働反対、再稼働反対…」とコールし、持ち込まれたドラムセットやパーカッションを鳴らしている。きょう未明その映像を観ていて、ボ・ディドリーのビートだと思った。それで、思わず「正しい」とツイートした。

ぼくは先週の絵本ゼミで「ロックンロール・アーリー・デイズ」というドキュメント作品を観ながら初期ロックの話をした。ロックというのは底辺から出てきた初めての大衆文化なんだと語った。50年代なかばにアメリカ中を巻き込んだロックは数年で権力につぶされる。メディアは本物のロックの代わりに甘いキャンディーみたいなポップ・ソングを提供する。しかしそれを見抜けた人は少なかった。多くの人には流行が(空気が)変わったとしか見えなかった。そうやっていったん人知れず死んだロック。復活は60年代、ビートルズやストーンズ、フー、キンクスらイギリス勢のアメリカ逆襲を待たなければいけない。

未発表音源をここに載せておきたい。故・下村誠とぼくらの「こじこじ音楽団」1993年8月28日、吉祥寺マンダラ2における公開ライブ・レコーディングより「刺青ディドリー」(詞・曲:集平)テイク2を少し加工した。リードギターはミスター・チルドレンのサポートでも知られる河口修二。このころはまだ無名だった。

mp3が再生できるプラグインが必要です 刺青ディドリー take 2(MP3 3.9MB)

初期ロックンロールに野性を注入したボ・ディドリー・リズムの曲だ。ぼくがブラッドベリの短篇集『刺青の男(ザ・イラストレーテッド・マン)』からインスパイアされたことは前に述べた。それで「クールなイラスト キメてくれ」と歌っている。シューヘーの2ndにも入れたのでそちらも聴いてくださればうれしい。歌詞はここを見てください。
大飯で太鼓叩いてるひとりは下村誠と一緒に音楽をやっていた吉田ケンゴだ。今、熊本に住んでんだね。ジャングル・ビートがあそこにいる人たちを励ましているのにはワケがある。もう一度書こう。ロックンロールは底辺から出てきた初めての大衆文化、あれこそぼくらのビートなんだ。期せずして反原発の最前線でロックがよみがえった。ロックとはビートに乗せた愛に違いない。再稼働反対! 12/07/01



●『はせがわくんきらいや』は誤読され続けてきた。絵本の長谷川君とぼくを同一視する間違いが一番多い。以前、ウィキペディアに、長谷川自身はヒ素ミルクを飲んでいないと書いてあった。これも間違いだが、ぼくに障害が残ったように言われるのも間違いだ。子どもから「ごはん食べてますか」と手紙が来たり、ちょっと調子が悪いとヒ素じゃないかと言われたりする。おかげで、ぼくはハンディを持つ人たちが世間に曝される時の心細さを少しは共有できる。こういう色メガネでぼくを見る人たちは、その後ぼくがあちこちで説明してきたことを知らないのだろうが、そんなことよりも『はせがわくんきらいや』そのものを読んでいないのだとぼくは思う。

「あとがき」を読み返してほしい。若いぼくはこう書いた。「現在私は20才をむかえて健康にあります」…健康だが、生まれつき(事件と関係なく)の細い身体、「あとがき」の前半に調べて書いたこのモリナガ、そのふたつ抜きに始まらないんだ。何が? 表現者としてのぼくが。

絵本にしたのは個人の体験ではない。「私は、私の幼少のときのこと、貧しい母子家庭に育った旧友のA君のこと、病弱で、しかし、のんきないいやつだったけど、友だちになってまもなく死んでしまったT君のこと、それからR君、K君……それから、この夏、学童保育クラブでバイトした時知った子どもたちを思い出しながらこの本を書きました」……ぼくの小学校の通信簿は体育が3で他はオール5、鉄棒は苦手だったが、野球もピアノもけっこう上手かった。絵本の長谷川君はそんなぼくが出会ってきた、家庭や心身にハンディを持つ人たちを合わせたキャラクターだ。もちろん森永の問題から逸脱しないように気をつけはした。

「ぼくは、ちいさいころ(今より)よわみそやった」と書いたのは、弱い彼らと、何もしてあげられない弱虫のぼくの違いはなかったからだ。それでこの子を普通名詞みたいに、自分たちを呼ぶように「長谷川君」と名づけたのだ。絵本では長谷川君にかまい、殴り、背負って歩くことができた。弱虫はこれで卒業やとぼくは自分に言い聞かせた。長谷川君に過去のぼくが少しは混じっていても、絵本を描いた今はもう違うぜと言いたかったのだ。

自分は健康だと書いても、そう読んでもらえない。こんなことは氷山の一角、本を読むのは難しいものだ。そんな時によく思うのは「殺すな」と、キリスト教だけじゃなく、ユダヤ教もイスラム教も聖典にしている旧約聖書に神の掟として書いてあるのに、それが守られた時代はなかったという事実だ。解釈や言い訳ばかりが膨張していく。書かれているものが真っすぐに読まれることの方が稀である。聖書に帰れ、聖書のみ、という宗教上の企てはぼくには無謀に見える。シンプルな絵本ですら読み取れない人たちが、ぶ厚い聖書を読み取れるだろうか。12/04/23



●きのう、友だちがリツイートしたツイート。目に突き刺さった。

@pinkuaroe: 何だこの国。瓦礫は拡散。国民総責任論。原発再稼働。電気代値上げ。消費税は不退転で値上げ。子供が何ミリ被ばくしようが見守るだけ。食品基準値引き上げるの一つ見逃しただけでなし崩しで全部強行する気か。もうメチャクチャだな。毒まみれで元に戻す気だ。

ぼくの絵本『大きな大きな船』(09年 ポプラ社)もまた予言的だったことが、3.11の前よりも後に明確になってきた。預言者やユタやイタコは道具。本人は口から出てくる言葉の意味をかならずしも理解していない。彼らは受信機であって送信機ではないのだ。絵本作家もまた良い受信機、良い増幅器でありたいと思う。12/03/12

「ぼくらはみんな、大きな大きな船に乗ってるんだ。時代という船にね。大きな大きな船は急には止まれない。向きを変えるにしても、ゆっくりじゃないと船がかたむいて、いきおいで外に放り出される人だってあるかもしれない」
「ふうん、大きな大きな船か。映画で見たタイタニックみたいな?」

「もっと大きい。大きな大きな船だ。タイタニックは沈んじゃったけど、沈まないようにしなきゃな」
「あれは昔の船だからでしょ? 今の船はだいじょうぶだよね」
「どんな乗り物にも事故はあるさ。歩いていても事故はある。そんなこと気にしてたらどこにも行けなくなるよ」
──『大きな大きな船』より




『れおくんのへんなかお』初校、いい出来でした。文字レイアウトを少し直すことにしました。『トリゴラスの逆襲』と同じく平仮名と片仮名だけで書いています。ぼくの絵本はパッと見でオトナの本扱いされてしまうので、これでもかと念押しする必要を感じています。子どものために書いているのにオトナ向きと言われるのは大変不本意だし、バカにされてるみたいな気がする。そう言いたがる人は子どもを子ども扱いしてるんじゃないかな。ぼくの本と子どもの間にオトナという関所があります。越えるのが大変。

きのうは姫路市立城巽(じょうそん)小学校5〜6年の担任だった岡田先生と電話で話しました。高校の岡田先生とは別の人。姫路市芸術文化賞をとても喜んでくださいました。新任教師だった彼は今80歳。そうか、左右田一平の世代なんだ。先生の指揮で民謡メドレーを合奏した学芸会を、彼もぼくもなつかしく思い出しました。会場がすごく盛り上がって、岡田先生は観客の方に振り返り手拍子を指揮した。ウィーン・フィルのニュー・イヤー・コンサートでもそういうシーンが毎年ありますが、あれを観るとぼくは岡田先生を思い出します。先生はぼくを子ども扱いしなかった。お電話うれしかったです。12/03/02



●第34回姫路市芸術文化賞を受賞しました。きのうの記者発表までは公表しないように言われていたので、ちょっと苦しかったです。電話をくれた市役所の人もなんだか事務的で、もっとおたがい喜び合えたらいいのにと思いました。「交通費は出ないから、よく考えて表彰式に来られないならそれでもいいです」なんて言うんだよ。

この写真は姫路東高に行ってた70年代はじめ、社会人2人にスカウトされて結成したブルーグラス・バンド、カントリー・ナッツ。向かって左でマンドリンを弾いているのがぼくです。今はない公会堂の会議室でサークルの公開練習。いつもはバンジョーの福田さんの家の鉄工所で練習していた。ぼくは高1の夏に友だちに借りたテントを持って中津川の第3回全日本フォークジャンボリーに行ってアホ(ナッツ)になりました。それが今まで続いている。

今朝、留守番電話に高3の担任の岡田先生のお祝いの言葉が入っていました。国士舘で柔道をやっていた人で、ぼくはこの人に投げ飛ばされたり、長い髪の毛を引っ張られたりしたもんです。なつかしい。反発し合ったのに、いつも気にしていてくださる。ありがたい。12/02/29



●映画「悪人」を観て、ぼくは浦山桐郎の映画「私が棄てた女」(69年・画像)を思い出していた。李監督の「フラガール」を観た時も浦山の「キューポラのある街」や「青春の門」を思い出した。浦山と李がつながって見えるのは、どちらも棄てられた人たちを描くからだろうか。

福島出身のM君に「私が棄てた女」を観せたくて、調べたら中古のVHSに2万円以上の値がついていた。DVD化されてない。それで、前にケーブルテレビのノーカット放送を録画したテープを探してDVD-Rにダビングした。

観ながらぼくは泣いた。この映画でこんなに泣くのは初めてだ。泣くポイントも前と違う。浦山はよく「東北を知らずに日本を語るな」と言った。東北と九州が好きだった。この作品はなかなか公開されなかったし、浦山はその後長い間映画を撮れなかった。そんなところもぼくは受け継いでいるのかもしれない。それは映画や出版が依存している経済や社会の仕組みと、そこから出てくる「自然な」感覚に合わない表現だから、ぼくらが乗っかってるのは棄てた者の作り話であって、棄てられた者の真実ではないからだ。

浦山は徹底してこの国が棄ててきた者たちを描いた。主人公は福島出のカッペ女を棄てて昇進するが、その彼もとっくの昔に棄てられているのだ。東京電力が福島に原発を作ったのと同じで、東北はああやって金だけ掴まされて棄てられたのだし、東京でしあわせになろうとしている人だってとっくの昔に事の中心から置き去りにされているのだ。あとはただ作り話に身をゆだねて快と不快の間を行ったり来たりしているだけだ。浦山の映画は間を空けて観るたびに近づいてくる。今は近すぎて息苦しいほどだ。M君、送るから観てね。12/02/04



●電話で話した長野ヒデ子さんにアーサー・ビナードが広島に引越したと聞いた。東京の家を引き払ってはいないそうだが、神戸に引越したスズキコージとともに絵本の大事な作り手の疎開だ。

きのう、ふとストラヴィンスキーの「兵士の物語」日本語バージョンが子ども向けCDで出ていたことを思い出し、聴きたくなった。反則だがニコニコ動画で全篇聴ける。兵士:巻上公一、悪魔:デーモン小暮閣下、語り手・王女:戸川純というキャスティング。指揮:斎藤ネコ、小編成の演奏は梅津和時ほか、挿画:山本容子……このメンツを見て発売当時(1992年)ぼくは買うのをためらったのだった。彼らが活躍していた時代の生々しさがなくなった今、聴けばあまりに素晴らしい。聴かなかったことを悔いた。CDは廃盤でべらぼうな高値で取り引きされている。どうしよう。

ドビュッシーから後輩のストラヴィンスキーに接近したというが、仲良くなったふたりはストラヴィンスキーの新作「春の祭典」をピアノ連弾し、言葉を失うぐらい感激して抱き合った。その数日後のニジンスキー振り付けによる1913年パリ初演の会場は非難の嵐で大スキャンダルになる。映画「シャネル&ストラヴィンスキー」(2009年)の冒頭で会場の混乱が描かれていた。ストラヴィンスキーが「兵士の物語」を書いたのはドビュッシーが亡くなり、第一次世界大戦が終結した1918年だ。クラシック音楽はあの大戦とともに終わったという説に従えば、これは最後のクラシック音楽だろう。
ぼくは『音楽未満』(91年)にこの曲のマルケヴィッチ/コクトー盤について書いた。今ならネコ/デーモン盤を書くだろう。日本語でおもしろおかしく聴いていくうちに、原発依存こそ悪魔の究極の誘惑だったと思い至るのだ。対訳ではそこまで気づけなかった。12/01/31



●新作絵本『れおくんのへんなかお』の原画が大詰めを迎えました。きょうあしたで本文32ページ描き上げられたらバッチリです。
写真はれおくんとぼくが太極拳の演舞会を見ているところ。おもろい絵本の中の真面目なシーンです。太極拳の型は長谷川くみ子師範に指導をあおぎました。彼女の教室のように老若男女、上手い人も下手な人もいる。上級者は道着でやるのが楊名時太極拳です。きょうはこの続きを描きます。あと3見開きと最後の1ページとトビラです。応援よろしく。12/01/13



●気になっていた映画「悪人」(2010年 李相日(リ・サンイル)監督)を観た。すごく感動して、もう一度観た。原作者の吉田修一は長崎の人だから、この映画の舞台背景や人物設定はぼくには掴みやすかった。けど、長崎を知らない人にはどうだろう。距離感や差別構造がどれぐらい伝わるだろう。

ぼくが3歳の時、姫路の本家の洋服店がつぶれて、父が自転車ひとつで商売を始めた。同業者が敬遠する被差別部落に彼は果敢にセールスに出かけた。秋兵という名の部落の人を彼は尊敬していて、その人の読みをもらって集平という名を長男につけたのだった。その父でも部落の女とは結婚するなとぼくに言った。

長崎には関西のような露骨な地域差別はないが、土地によって言葉が少しずつ違う。それだけで人を笑うようなところがある。隣県の佐賀を嫌う。佐賀は福岡からも田舎扱いされる。「悪人」が描くのは見下された人たちだ。だれもが被害者でだれもが加害者なのだが、とりわけ自分が加害者だと知るのは主人公だけなのである。とても普遍的な物語だと思う。外国の人にもわかるんじゃないだろうか。

画像は「悪人」に出てくる灯台。映画では長崎にあるように描かれているが、五島・福江島の大瀬崎灯台だ。クンの父の故郷にある。サルコーデ・ナガサキに描いた場所だ。実はここには今、灯台しか建っていない。灯台の横に見える退息所の建物は美術監督・種田陽平によるオープンセットだ。今度行った時にこの建物がないとちょっとさびしいだろうと思う。

年末から新作絵本を制作中です。12/01/07



●なんだかふしだらなドビュッシーにも1905年、43歳で初めての子ができる。その子を孤児にしないために夫人ともども再婚する。彼は娘をシューシュー(Chouchou=キャベツちゃん)と呼んでかわいがった。

これは1908年に出たピアノ曲集「子供の領分」の表紙。イラストは全6曲中みっつの題名をもとにドビュッシー自身が描いている。象のジンボーはシューシューのぬいぐるみで、彼女は毎晩ジンボーに子守歌を歌いながら寝てしまう。ジンボーが持っている風船の顔は子どもたちの人気者、ゴリウォーグ。背景には雪が降っている。
表紙をめくると幼い娘への献辞がある。「私のかわいいシューシュー。ごめんよ、父さんはこんなものを書いちゃった」。子ども向けに作品のクオリティを落としたりない。それなのに限りなく優しい。ドビュッシーもシューシューもこの後、長くは生きなかった。音楽だけが残った。

ぼくは絵本を描いてきて、常に「難解で子どもにはわからないだろう」という批判にさらされてきた。でも、ぼくが読んであげて「わからない」と言う子はいなかった。ドビュッシーの「子供の領分」を聴いて「わからない」という子どもはいないだろう。ワーグナーの引用に気づかなくても、曲が前衛的で、演奏が難しくても。
ぼくも「ごめんよ、おじさんはこんなものを描いちゃった」と子どもたちに言うことにしよう。11/12/10



『小さなよっつの雪だるま』の奥付の日付を11月2日にすることにした。死者の日だ。
絵(部分)は母親になった主人公が息子を連れて長崎に帰郷するシーン。特急の窓外に干潟と雲仙が見える。諫早干拓で失われた干潟。
子がおとなになり子を産む。その子がまたおとなになっていく。いつか死ぬ。生きている以上、人は傷つく。それでも信じ、望み、愛することができる。そんな、ありふれたことが世界を支えてきた。その大切さを、ことしほど痛切に感じたことはない。

スズキコージが個展のチラシを送ってくれた。封筒に「12月に神戸に引越します!」と書いてあった。小さな子がいる彼は、被爆を避けて住み慣れた東京を去ることにしたのだ。そのことを仕事のメールにひと言書いたら、編集者Mさんからこんな返事が来た。

東京の豊島区に住んでいる、私の友人のつぶやきです。
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おはようございます。久々に、息子と共に寝て、早起きしました。朝仕事のほうがやっぱり気持ちいいなぁ〜!窓を開けて、鳥のさえずりを聞きながら、きょう一日の無事を祈ります。一日の無事を祈る時に、前とちがうのは、この空気にも放射能はあり、福島では子どもたちが被曝し続け、原発では作業員さんたちが危険な現場で命をはり、被災地ではきょうを生きるだけに必死の人たちがどれだけいるかということ。この今を受け入れるところからしか、きょうは始まらない。ふんばる!
******
ほんとに、ふんばらないと、こどもたちの健康は、どんどん奪われてしまう。
そして、ふんばりつづけることは、とてもエネルギーが必要です。
『小さなよっつの雪だるま』が、いま、このときに生まれるのは、やっぱり、すごく意味があるのだ、と思います。


この絵本には出す意味がある、そう思えることに感謝しよう。11/10/26



●きのう23日(日)は祈りの丘絵本美術館で開かれていた原画展の最終日。クロージングは副館長の石川さんの乾杯の音頭でスタート。出会いがあり、うれしい再会があり、遠来の朋(とも)あり、また楽しからずやでした。みなさん、ありがとう。美術館もぼくらも新たな一歩を踏み出せたと思います。

『小さなよっつの雪だるま』のダミーを見てもらっているところ。静かな手応え。
 シューヘー・ライブ。英国風の建物は音響もいい。気持ち良く演奏できました。
 童話館のスタッフは美人ぞろい。絵と音楽が良かったから美人度アップっす。

きょうはやや放心状態ですが、切り替えて、実は次の絵本がもう動き始めています。順調に行けば(頼むよ!)来年の早い時期に出ます。こういう制作ペースを待ち望んでました。11/10/24



●先週の月曜は下の記事を書いてから紙を買ってきて、火曜から土曜の5日間で新作絵本を描き上げました。と同時にソフトバンク・ホークスがリーグ優勝。土曜の夜は浦上のミサで感謝の祈りを捧げました。

すべては去年の1月に撮ったこの写真から始まりました。編集者にデータを送って見てもらいながら描きました。順調だったのですが、きょう起きてメールをチェックしたら最後の最後にケチがついて、ああ、またかという、急に気分が萎えちゃった。ぼくの作品ってこればっかり。心を込めて「この味この味」と作った料理に余計な味を足さんでくれよと言いたくなる。言われたことに納得すれば直さなくはないけどね。35年のうちに数回は直した。直して後悔しているところもある。何十年も前のことをだよ。

金曜に『トリゴラスの逆襲』の編集者Hさんがきょう退職すると電話をくれた。それならそうと教えといてよ。ともあれHさん、お疲れさまでした。彼女とは30年のつきあい。あそこを直せ、ここはわからない、なんて言われ続けてきて、天敵でもあり味方でもあったけれど、それも思い出になってしまうんだな。親しい編集者が何人も、何十人もぼくの前から消えていった。『大きな大きな船』の編集者も辞めちゃったしね。ぼくは作品に対して死ぬまで、いや、死んだ後にも責任があるけれども、編集者はどうなんだろう。死の床で「あそこは直す前の方がよかった」なんて後悔することはないんだろうか。

きのうでポレポレ坐の「ぼくらの原始力展」は終了。ぼくの絵、売れました。○○さん、あなたに買ってもらって本当によかった。ありがとう。原始力展はこの後、山梨、大阪と巡回するようです。11/10/03



●9月19日(月祝)から10月2日(日)東中野・ポレポレ坐で59名の絵本作家による「ぼくらの原始力展」が催されます。ぼくは「水を運ぶマリア」という絵(画像)を出品。F3のキャンバスボードにリキテックスで描いて額装しました。実物を見て気に入ったら買ってください。売り上げは委員会の判断でしかるべきところに寄付されます。だれがどんな絵を描いてるか気になりますが、ぼくは会場に行けそうにありません。きっと見応えあるでしょう。

今、書店には原発に関する本がいっぱい並んでいますが、児童書コーナーにはないですね。調べてみると、2〜30年前に出ていた反原発絵本のほとんどが絶版です。まだ出ている『これが原発だ------カメラがとらえた被曝者』(樋口健二・著、岩波ジュニア新書 91年)など、ネットで探せばなくはないですが、子どもたちにすんなり届くかどうか。

そんな中、ことし出た『エネルギー』(池内了・文、スズキコージ・絵、たくさんのふしぎ6月号、福音館書店)は原子力よりも原始力を描く怪作。この絵本と「ぼくらの原始力展」は直結しています。ネガティブにではなくポジティブに未来を語りたいというのが子どもの本の願いです。けど、核の平和利用なんてウソはもうつけないのです。11/09/16

19日の東京・明治公園を埋めた人人人…。主催者は6万人といい、警察は3万人以下という。原発推進派が市民をこれだけ集められるだろうか。3,500人でも7万人と発表するだろうけどね。




●8月23日から始まる集平の絵本原画展バージョン、ソフビ・トリゴラスの画像。「黒成型にメタリックグリーンを吹いています」(マーミット・赤松和光さん)。夜の怪獣トリゴラス、レトロでクールです。限定カラーで、このバージョンは長崎の会場でしか手に入りません。が、祈りの丘絵本美術館が通販しましょうと言ってくれてるので、購入方法が決まったらお知らせします。先週の金曜日に発送したシューヘー通信65号に原画展情報を載せておきました。特集は「シューヘー・ガレージの1日」で、ぼくの描き下ろしイラストがいっぱいです。ミニコミでしか語れないこと、書けないこともあります。ぜひ定期購読を。11/08/01

連作「サルコーデ・ナガサキ」絵葉書の通販を始めました。こちらもよろしく。



●震災の翌日、電話の大内はパニクっていて「土木の仕事でもするしかない」と言う。彼は地域情報紙を作っているが「もうスポンサーもつかない。オレらみたいなミニコミはひんしゅくもんですよ」。ぼくは「そんなこと言ってないで、大内の絵と文を生かして、まわりの人の役に立ってくれよ」と言った。被災者の彼に言い過ぎたかなと後悔した。

鈴木の無事を知らせてくれた大内の声には覇気があった。「こないだはすみませんでした。なんとかやってみます」と言う。よかった。表現をあきらめないでほしい。

彼は『トリゴラス』に出会い美大をやめて、ぼくの授業がある渋谷の専門学校に来た。ぼくは25歳だった。絵本は、音楽は、芸術は、嗜好品ではなく主食なんだと教えた。そのことが今、意味を持ってくる。
現在、テレビやラジオもエンターテインメント自粛気味だが、それは嗜好品だからで、主食は届けなきゃいけないのだ。

画像は阪神・淡路大震災の後に描いた『あしたは月よう日』(97年)から。ゲラ刷りのこの絵を見て、大阪の専門学校の女の子が「神戸や! 震災の前の神戸や!」と言って顔を輝かせたのを、ぼくは一生忘れないだろう。11/03/15



●大地震と大津波。想像を絶する惨状。宮古にいる伊織のことが心配だったが、きょうになって生存を確認できた。彼が勤めている海員学校の備蓄食料で炊き出しをしているとのこと。

東京ではマーミットの赤松さんは無事。何人かの編集者も無事。ひとりは朝、家にたどり着いたそうだ。秋田の藤井君、無事。でも職場はぐちゃぐちゃ。電気がまだ来てない。寒い。……連絡が取れる人と取れない人があり、気を揉んでいます。

画像は『トリゴラス』から、もう、めちゃくちゃや。まち、ぐちゃぐちゃや。もう、わやくちゃなんや。『トリゴラスの逆襲』なら、そやけど、やっぱり あかんやろ。うみちゃん、ふうた、キムせんせい、ばばさん、みんな あそこに おるねんで。……シャレにならん。11/03/12

続報:夜になって福島県郡山市の大内(ををうち)と電話が通じた。かなりひどい状況のようだが、自分のことより津波に襲われた岩手県大船渡市の鈴木の安否を気にしている。大内と鈴木はぼくの最初の生徒だ。無事でいてくれ。11/03/12

続々報:鈴木から友だちにメールが届いた、生きてたと大内の電話。よかったよー! 11/03/14




●写真は赤松トリゴラス頭部の進行状況。正面から見るのは初めて。見てください、この憎々しい凶相を。左右対称じゃない顔に込められたものを。『トリゴラス』について書かれた次のような文章を思い出した。

怪獣がどこから来たのか? どこで生まれたのか? 何が目的なのか? そういう人間側の思惑など一切おかまいなしに、突然現れて暴れまわり、去っていく。そういう天災のような恐怖を、この怪獣絵本は持っている。---- 腹八分味之介「インチキ用語集」より

そしてこのソフビがその恐怖を立体化するのだなあ。恐い恐い。そんで、うれしい。11/03/08

※クンの長崎県支部で作った楊名時太極拳50周年記念の皿の紹介ページができました。飾るのにも食器としてもお薦めです。



●京都でことし最後の授業。その前に4回生のMを編集者Mさんに会わせる。Mさんはそのためだけに東京から自費で来てくれた。この出会いが絵本の世界に派手ではなくても大事なものを思い出させるきっかけになるといいと思う。

金曜の授業前に『トリゴラスの逆襲』ができたという浜田さんからの電話。「やったー!」と心の中で叫ぶ。学生と打ち上げのあと、ラーメン食ってホテルに帰ったら『はせがわくんきらいや』と『パイルドライバー』の増刷の知らせが入っていた。『パイルドライバー』は忌野さんの帯つきの増刷を予定しているとのこと。こういうことっていっぺんに来るね。いい年越しができそうだ。

京都から帰った翌日のきのう、意外な人からのメール。鈴木常吉だ。長崎にライブで来ているのでお茶でもどう? ライブに行くよと答えた。小さなレストランで、ツネちゃんのななめ前に陣取って聴いた。途中で「なんかやりにくいよ」と言われた。終わったあとに「よかったよ」と言ったら「こんな歌書くの、オレと集平君しかいないよな」とツネちゃん。「同じ穴から出てるからね」とぼく。
ホテルにギターとアコーディオンと荷物を置いて、うちで一杯のつもりが朝方まで話し込んだ。ひさしぶりの東京下町の「バカヤロウ、テメエ」口調が痛快だった。画像の酔っぱらいこそ、かつてのスペシャルサンクスの4分の3です。そもそもは暴走族のツネちゃんがぼくの『トリゴラス』を読んだのが始まりだった。大喧嘩して別れた二十何年後の再会。『トリゴラスの逆襲』を出すのは今しかなかったんだ。ツネちゃん、いい旅を! 10/12/06



●『トリゴラスの逆襲』表紙のカンプ(仕上がり見本)が届いた。きれいだ。来週には本文(ほんもん)のカンプが届く。ゴールはすぐそこだが、まだまだ安心できない。気合いを入れて9回裏の守備につこう。

きょうは父の1周忌。救霊のためのミサを捧げた。クンは初めて父に会った時、『トリゴラス』のおとうちゃんにあまりに似ているのでびっくりしたと言う。同じキャラクターをぼくはアムネスティ・インターナショナルのための作品にも登場させた。オークションにたまに出る「季刊絵本」6号 特集・長谷川集平グラフィティ(83年)の表紙に流用されたのがその絵だ。初期のぼくは父に似た人をよく描いた。ぼくの心が父から離れていくにしたがって、その人はぼくの絵から消えた。

新作『トリゴラスの逆襲』を今ごろなぜ思いついたんだろうと自問すれば、父を描きたかったというのが動機のひとつに違いない。終始しかめっ面だった『トリゴラス』のおとうちゃんは続篇では小さな笑みを浮かべる。そのページを亡き父に捧げたいと思う。10/10/22



●長崎にちょこっと寄港した世界最大級豪華客船クイーン・メリー2号。夕方には横浜に向けて出港しました。写真はうちから見たQM2、左が船首。松が枝ふ頭から後進離岸、そのまま行くと対岸にぶつかるので大きく曲がってこちら側に船尾を向け、前進で出て行きました。

水面からの高さは20階建てのビルほどの62メートル。右奥に白い線で写っている女神大橋をくぐり抜ける時、船と橋の隙間は3メートルしかなかったそうです。絵本『大きな大きな船』のモデルにしたタイタニック級のクリスタル・シンフォニー号より100メートル長い345メートル、重さは3倍の15万トン。これまで長崎に寄港した船で一番大きい。ぼくもこのクラスは初めて見た。

1月4日から4月22日で世界一周、全日程参加費用は200万円から2,000万円。乗る人がいるんだよな。きょうは2,500人が船を降りて長崎観光したそうな。ぼくらの感覚を見事に裏切る巨大な動く建造物。ぞっとするほど美しい。大きな大きな船には日暮れがよく似合う。世界の日暮れを思わせる。10/02/17 灰の水曜日




●渡さんが亡くなって、きょうで7年。あらためて言うことはほとんどないので、7年前に長崎新聞「うず潮」欄に書いた一文を載せておこう。

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わが師匠・高田渡
 ライブツアー中に倒れた高田渡さんが釧路の病院で亡くなった。56歳だった。ご冥福をお祈りします。
 ぼくは中学生の時に地元の公会堂で観た渡さんのコンサートに衝撃を受け、この人こそわが師匠と決め、それからは受験勉強そっちのけで歌い、絵を描いた。一浪して東京の美大に入り、中央線沿線に住んだ。渡さんとその仲間が集う吉祥寺のぐゎらん堂に行って、安い酒を頼んでは遠くからその人たちを見ていた。見るだけで満足だった。ひとこと声をかけられただけで天にも昇る気持ちだった。

 ぼくは絵本作家になった。仙台で絵本の原画展をしていたら、会場に渡さんがひょっこり現れた。近所でライブがあり、予定を1日延ばして会いにきたという。渡さんはぼくの作品をよく読んでくれていた。遅くまで話した。
 それからぼくらは急接近して、かけがえのない日々を過ごした。楽しいこともつらいこともあった。あのころ、渡さんのレコードのほとんどが廃盤だった。ライブに人が来なかった。不遇を乗り越えて、最近の渡さんは実にタカダワタル的になっていた。人は彼を国が認めない人間国宝という。

 6年前、長崎でのライブの後に田舎という店で渡さんとひさしぶりにじっくり話した。ぼくは酔っぱらって記憶がほとんど飛んでしまっているが、目撃者によると、ふたり見つめ合ってぼろぼろと涙をこぼしていたそうだ。あの時彼は、目に見えない絶対的存在を信じたいと言った。やさしかった。
 渡さんの葬儀は吉祥寺カトリック教会であった。その日の夕方、夫人と友人たちは遺骨と遺影をかかえて、渡さんお気に入りの焼鳥屋いせやに繰り出したそうだ。

 師匠を失ったぼくと女房のふたりバンド・シューヘーが長崎で5年ぶりのライブをします。(中略)このライブを渡さんに捧げます。地道に続けてきた長崎絵本セミナリヨの10周年記念イベントでもあります。来てね。

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……6年前と書いているから、今から13年前、長崎の友人と企画した「アンプラグド・ナガサキ」渡さんの回。画像は宣伝用にぼくが描いた似顔絵。御飯という日本家屋風の飲食店が会場。面白かったのは渡さんの熱心なファンで真っ先にいい席に陣取ったのが年配の検番(芸者)さんだったこと。うちの曽我がなかなか優秀な売り子で、普段よりもはるかに渡さん持参の商品が売れて、大変感謝されたこと。その日は興奮して眠れなかったと言うお客さんが多かったこと等々。

シューヘーは前座で演奏。ほとんどカバーされないし本人も歌わない初期の「春まっさい中」(1st ソロ・アルバム「汽車が田舎を通るその時」)を演った時、客席の後ろで渡さんが涙をぬぐうのを見た。

渡さんはベッドの上で意識のないまま洗礼を受け、パウロという霊名を授かった。万一そんなことがあったら洗礼を受けさせるからね、同じ天国に行かなきゃいけないんだからとカトリックの奥さんに言われ、いいよと言っていたそうだ。「目に見えない絶対的存在を信じたい」と言ったきり涙があふれて何も言えなくなってしまった渡さんのことをぼくは今でもよく思い出す。あの夜の渡さんは、ぼくなんかよりはるかに信仰の人だった。12/04/16


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